【第837回】 空の気を解脱して真空の気に結ぶ

半世紀以上にわたって合気道の修業をしているわけだが、ようやく気というものを自覚し、つかえるようになってきた。長い道のりだった。やるべきことを見つけ、感じ、試し、反省したり改善しながらやってきたのである。
はじめは体力、腕力や元気で技をつかっていたがその限界を悟ることになる。次に息で技を掛けるようになった。つまり、息で体を導くということである。そして息で技をつかっていくうちに息が気と入れ替わり、つかわれるようになっていたのである。そこで自覚した気で体と技をつかうようになるわけである。ここまで数行で書いたが、50年ほど掛かったわけである。

自覚し、つかっている気は重い力を持っているし、相手をくっつけてしまう引力をもっているし、そして力の大王に相応しい強力な力を出す。これまで腕力や息でやっても上手くいかなかった諸手取呼吸法も大分上手くいくようになった。
そして、今度はこれからどのような修業に入らなければならないかと考えていたところ、「空の気を解脱して真空の気に結ぶ」稽古をしなければならないことがわかった。これも大先生の教えである。改めて、大先生は我々の疑問や問題に答えを用意されておられた事が分かる。
そこで大先生のその教えを記す。
真空の気は宇宙に充満しています。これは宇宙の万物を生み出す根源であります。空の気は物であります。それがあるから五体は崩れず保っております。
空の気は重い力を持っております。また本体は物の気で働きます。身の軽さ、早業は真空の気を持ってせねばなりません。空の気は引力を与える縄であります。自由はこの重い空の気を解脱せねばなりません。これを解脱して真空の気に結べば技が出ます。解脱するには心の持ちようが問題となってきます。この心が己の自由にならねば死んだも同然であります。弓を気一杯に引っ張ると同じに、真空の気を一杯に五体に吸い込み清らかならば真空の気がいちはやく五体の細胞より入って五臓六腑に食い入り、光と愛と想になって、技と力を生み、光る合気は己の力や技の生み出しではなく宇宙の結びの生み出しであります。」(合気神髄 p.67)

今、自覚し、つかっている気は空の気ということになるので、これからは真空の気をつかえるようにすることである。「身の軽さ、早業は真空の気を持ってせねばなりません」とあるから、「身の軽さ、早業」ができるような気を持つことである。勿論、この「身の軽さ、早業」というのは、自由自在ということであり、技が無限に生まれるということであり、真善美であり、そして宇宙と結んでいるということであると考える。所謂、比喩である。

大先生は「空の気を解脱して真空の気に結ぶ」と教えておられるわけだから、先ずは空の気を持つようにし、空の気を持ったら、次にその空の気を解脱して真空の気に結ぶ技づかいをしなければならないということになろう。
大先生は超人的な修業をされ、空の気を会得され、そして空の気を解脱して真空の気に結ばれ、所謂、超人的、宇宙的「身の軽さ、早業」を技で表わされたので、竹下勇海軍大将などの軍人、内海勝二男男爵等の皇族、花柳寿美社中の綺麗どころ、二木健三博士等の学者、力士の天竜三郎、それに加納治五郎などの武道家等々が大先生の技を絶賛されていたのである。加納治五郎は、「開祖の神技に接し、『これこそ私が理想とする武道である』と絶賛せしめたのである。合気道とか武道とかいう次元を超えられて絶賛されたわけであるが、「空の気を真空の気に結んだ」結果であるろう。

世界的に名の知れた歌手、演奏家、画家、書道家などいるが、あまり名の知られていない方々とどこに差があるのだろうか。
考えるに、普通の先生方の段階は精々空の気の次元であると考える。この段階では、その所属する世界(例えば、武道界、音楽界等)の人々には評価さるだろう。例えば、合気の技を空の気でつかえれば、己の属する合気道界か精々武道界である。しかし、大先生のように華族、相撲、学者、芸能などの世界からの評価は無理である。
しかし、歌手、演奏家、画家、書道家等は世界的に広範囲に活躍されている方が多いようだが、そのような方は、空の気をしっかり身につけた上で、更に空の気から真空の気に結んだ仕事をした事によると考える。空の気から真空の気に結びつくと、分野、国、地域、時代などを超越して人に感動を与えることが出来るということである。
これまで、音楽を聞いても、歌を聞いても、絵を見ても、踊りを見てもどう評価していいのかが分からなかったが、空の気をしっかり身につけているのか、そして真空の気と結んでいるのかを見るようにすればいいと考える。
勿論、修業している合気道も己自身が、空の気を解脱して真空の気に結ぶ稽古をするとともに、その方法を知っている合気道が世に評価されるようになるようにしていきたいと思っている。