【第798回】 我を無くす

合気道は、一教や四方投げ等の形を通して、陰陽十字などの技を練り、形を技で埋め尽くべく精進していく武道であると考えている。合気道の稽古は相対で技を掛け、受けを取るの繰り返しの稽古であるが、勝ち負けや強い弱いの稽古をしているわけではないので、老幼男女が容易に誰にでも出来る。故に、合気道は世界的に稽古人が増えているのだと思う。

しかし、長年に亘って稽古を続けてくると、ある時期から、合気道は非常に難しい武道であると思い知らされるようになる。
先ずは、合気道は武道であるということを再認識するようになる。相手がどんなに力一杯掴んで来ても、打ってきても、それを制し、抑えることができなければならない。また、過っての武道なら、ただ決めてしまえばいいわけだが、合気道は相手も自分も納得するように決めなければならないのである。
そのためにはどのような稽古をしなければならないのかを研究しなければならないことになる。
次に、相手を納得させる技を産むためには、強力な力が必要になることが分かってくる。合気道には力が要らないとか、力が無くとも技が効くなどは、力がない者のいいわけである。力はあった方がいいし、あればあるほどいい。魄の力も大事だが、気の力、そして魂の力も強力にしなければならないことになる。
三つ目は、技は非常に緻密であるということである。腰腹と手や足や首と結び、連動して働くので、これらの繋がりの一つでも切れてしまえば、力も生まれず、技にならないのである。また、中心線を1cmでも外したり、親指を先に動かしてしまっても技にならないなどと、緻密な技を緻密につかわなければならないのである。
四つ目は、技には法則性があるということである。技は宇宙の営みと法則によってつかわれなければならないのである。陰陽十字や布斗麻邇御霊の運化に合してつかうのである。

最近、また呼吸法を稽古している。呼吸力という力を養うには最適な稽古だと思うからである。事実、この呼吸法のレベルに応じて技がつかえるものである。従って、技のレベルをあげるためにも、また、呼吸力をつけるためにも呼吸法を錬磨するのがいいと信じている。
さて、呼吸法がある程度できるようになってきたので、仲間にも呼吸法をやらせてみた。私のように相手を浮き上がらせてしまうような力を出そうとするのだが難しい。はじめての事なので出来ないのは当然だが、やり方を教えても出来ないのである。そこでやり方を教えてやったのに、何故出来ないのかを観察していると、その理由が見えてきたのである。

それは。技を掛けようとか相手を倒そうと思って技を掛けていることである。そう思って技を掛けてくる時は、手から先に動き、腹や足が止まっているのですぐにそれがわかる。これは“我”である。
この我を捨てないと本当の力(呼吸力、気力)は出ないのである。勿論、自分自身の場合も同じである。我で技をつかい、体や息をつかっても本当な力は出て来ない。

それでは、相手を倒そう、抑えようとしないで、それ以上の力を出すためにはどうすればいいかということになる。
それは宇宙の運化に従って身体と息と気をつかうことである。相手の事は忘れ、宇宙の運化である布斗麻邇御霊の運化に合わせて身体と息と気をつかう事に集中するのである。
我を無くして、天地・宇宙と合してやれば、誰でも相当の力(呼吸力、気力)は出るものである。

我を無くすことは自我の想念を無くすことであり、空を行ずることであると、「合気道は、空を行ずる事が根幹であり、そこから生まれる自由無碍の動きであり、大調和、愛気の動きである、と思ったのです。空を行ずるという言葉を云いかえれば、自我の想念を無くするという事であります。」(『合気道と宗教』五井昌久)大先生の友人でもあった五井昌久師は語られておられる。