【第769回】 宇宙の営みフトマニで

合気道の技は宇宙の営みを形にしたものであると教えられてきたのだが、これまで“宇宙の営みの形“とはどういうものかは分かっていなかった。分かっていなかったから、自分のつかう技も不完全で満足できていなかったし、どうすれが完全でより満足できる技が産みだせるようになるのか見当もつかなかった。

そして、この課題を解決してくれる大先生の教えと山口志道の「布斗麻邇(フトマニ)の御霊」の図像に出会ったのである。
大先生の教えは、「合気は天の浮橋に立たされて、布斗麻邇(フトマニ)の御霊、この姿を現すのであります。これをことごとく技にあらわさなければならないのであります。」「フトマニ古事記によって、技を生み出していかなければなりません。」である。布斗麻邇を技であらわさなければならないということである。つまり、フトマニに則っていなければいい技にはならないということである。だからこれまでの技は不完全であったわけである。

山口志道の「布斗麻邇(ふとまに)の御霊」の図像は次の通りである。 

まず、人は何故、宇宙の営みをあらわすことが出来、宇宙の営みの技を生み出すことが出来るのかということになる。
それは大先生が、「人というものは、造化器官であることを知り、全大宇宙と己とは同じということをしらなくてはいけない」と教えておられるように、人は大宇宙と同じように働くことができるし、モノ・技を生み出すことができるのである。また、モノ・技を生み出すためには、大宇宙の営みに則っとらなければならないということにもなるわけである。
しかし人間社会ではそれを無意識の内に自然とやっていると思う。

人間社会を見回してみると、人は宇宙の営みに従い、少しでもそれに近づこうと頑張っていることが分かる。宇宙の営みに合したり、それに近ければ近いほど評価される。絵画や音楽や芸能などはその典型であるが、科学などは宇宙の営みを見つけ出し、その営みを利用、応用、活用しようとしているわけである。
合気道は先述の如く、それを技であらわそうとしているのである。合気道をつくられた植芝盛平開祖が、武道界だけでなく、科学、哲学、宗教、芸能、スポーツとあらゆる分野で絶大な評価を受けられたのは、技にしても立ち振る舞いにしても、また、話されることも宇宙の営みに合致し、それに反することが無かった故だと拝察している。

これまで合気道の修業を、宇宙の法則に反しない方に、そしてまだよくは分からなかった“宇宙の営み”に技と体を少しでも近づけようと錬磨してきたつもりである。が十分ではなく、不満足であった。
何故、満足出来なかったかを考えるに、技は宇宙の営みに合しなければならないというのに、その宇宙の営みを具体的にイメージできないことにあったことが分かった。このイメージがはっきりすれば、それに従って技と体をつかえばいいし、それで技の良し悪しも判断できることになる。判断基準が無ければ良し悪し、どのぐらい良くて悪いのかが分からないのである。

そして遂にフトマニとの出会いである。フトマニこそが宇宙の営みを目に見える図像にしてくれたものである。
「布斗麻邇の御霊」は、宇宙の創成から天地が出来までの宇宙の営みを図像化したものである。何もないところから、宇宙をつくり、天と地を生み出し、天と地をつくるという壮大な宇宙の営みをあらわしたものである。
この宇宙の営みであるフトマニに従って技をつかうのである。一教でも呼吸法でもすべての技(形)をこのフトマニに従ってやるのである。

レ(ポチ)で腹を締めて気を発散して宇宙大の○をつくる。これがである。
この○が天と地をつくり結ぶと○が回ってとなる。恐らくこの状態が魂の比礼振りであるだろう。これで技をつかう準備が出来たことになる。
次に、ここから息、気、体を横のにする。手を出して打ったり受けたり、足を進めたり、体を進める動作である。
そして手や足や体を縦のに働かす。
ここでが合わさって十字となりができる。ここで気が産みだされ気で満ちた玉になる。この玉で相手を制し、導くことができるようになる。
後は、息をに吐いて落とし、そしてに収めるのである。

このフトマニで技と体をつかえば、宇宙を感じ、宇宙がモノを生み出し、モノをつくり上げる事が感得できるようである。
この研究は更に続け、後日、まとめてみたいと思う。