【第747回】 柔から剛の稽古へ

合気道の理念と合気道の技の理合いが少しずつ分かってくると、これで技がつかえるようになり、大概の相手は満足して倒れてくれるようになる。天地の呼吸に阿吽の呼吸で、宇宙の法則・条理に則って技をつかうのである。
この稽古は恐らくは10年以上続いたことになるだろう。しかし、中には力が非常に強い相手がいたり、また、一緒に稽古をしてきている相手も理と力をつけてくると、時として上手く技が効かない事があることに気づいてくる。その力で腕が上がらなくなったり、体が動かなくなったり、相手を上手く制する事ができなくなるのである。
これはその相手と同質の次元にあるということになる。同じ次元にあればぶつかり合い、争うことになるわけである。故に、そのような相手をも制することが出来るためには、今の稽古のやり方を変え、己の稽古の次元を変えなければならないことになる。

それが柔から剛への移行である。これまでは“柔”の稽古であったことが分かる。“剛”を意識したお陰でわかってきたわけである。
これまでの“柔”の技づかいは、体も力も気持ちも息もすべて柔につかってきた。力を抜いて力まずに柔らかな稽古である。技の理合いを見つけ、身に付けるためにはそれがいいからである。もし、“柔”ではなく、“剛”の稽古をしていれば、私の場合は、合気の理合いを身につけることはできなかったはずである。また、本部で教えておられた有川定輝先生が、剛を忘れて理の稽古をするように導いて下さったのもある。
また、後で分かってくるのだが、理合いで体や技がつかえなければ、大きな力を出すことはできないし、真の“剛”の稽古は出来ないはずである。
勿論、戦前や昔の稽古が“剛”の稽古であったはずである。剛から始まり剛から柔にしていったと考える。このやり方の違いは時代にあると思う。昔は車も、電車も重機もなく、人は毎日、数里は歩いていたし、重い物も人力で処理したり運ばなければならなかったわけで、今のボタン一つ押す力があれば、自分自身もモノも何でも運んだり持ち上げたりする時代とは大違いであり、体も体の機能も大違いなのである。

“剛”の稽古、剛の技づかい・体づかいの特徴を一言で云えば、力一杯、精一杯力と気をつかうことである。柔の稽古でこれをやると相手を怪我させたり傷つけたりしてしまうし、また、真の剛ではない。言うなれば、力んだり、力任せということになるだろう。
真の剛の技づかい、体づかいというのは、理合いの息づかい、体と技づかいの上、体も力も気持ちも息もすべて剛でつかうのである。正面打ち一教の手、諸手取呼吸法で持たせた手も剛の手でつかうのである。その為には腹としっかり結ばなければならないし、手を腹としっかり結ぶためには、腹を十字に返してつかわなければならいと、理合いの上にすべて剛にしてつかっていくのである。また、技だけではなく、準備運動の手首関節や股関節の柔軟運動でも“剛”でやるのである。

“剛”の稽古、剛の技づかい・体づかいでやると、これまでにない異質で大きな力が出るようになり、これまでとは違って、相手を容易に制することができるようなってくる。
また、もう一つ、“剛”の技づかい・体づかいをすると、技や体が無意識の内に自然と動き、そこから気の力や魂の力が出てくるように感得する。

魂の学びのためにも、“剛”の稽古は必須であろうと考える次第である。