【第746回】 己の行は皆のためのもの

過って合気道に入門した頃から疑問に思っていたことが最近やっと氷解した。それは大先生が合気道の技を学校の先生のように教えて下さらなかったことである。技はこのようにするとか、体はこのようにつかう等との教えやご説明が無かった事である。我々門人の稽古での技づかいや体づかいをいいとか悪いも云われなかった。只、頻繁に叱られた記憶が残っている。大先生がお叱りになると、道場中が緊張し、誰も顔を上げる事が出来なかったものである。
私のために叱られて、道場中が緊張したこともあった。正面打ちで打ち合うとすでに赤く腫れている尺骨が痛いので、相手の手を打たないで滑らすようにやったのを大先生がご覧になり、そして大先生のぎょろっとされた目と合ってしまったのである。そしてその途端に大先生は道場にすかさずお入りになり、そして烈火の如く「そんな稽古をしてはいかん」と叱られたのである。それも、張本人の私に対してではなく、その道場におられた先生に怒られたのである。当然、その先生は何故大先生が叱られているのか知らないわけだが、戸惑いながらも大変恐縮されて謝れておられた。今になって思えば、これが最高の教えであったことがわかるのである。何故かというと、まず、相手に対してしっかりと打ち込んだり、掴まなければならないということである。これをしなければ稽古にならないからである。相手が真剣に打ったり掴んだりの攻撃をしてくるから、真剣に返そうとすることになるのである。これは合気道の稽古の基本であり、その基本を乱したことに叱られたわけである。
二つ目は、道場で上に立つものは、下のモノが不味いことをやっていれば正す責任があるということである。何か道場で不都合があれば、その上に立つ者の責任なのである。何故ならば、不都合なことをするものは、それが不都合であり、不味いという事を知らないでやってしまっているわけだから、知っているべき上のモノが注意をしなければならないという教えなのである。
この教えから、道場で後輩が不味いことをすれば、天上の大先生に叱られないように注意をするようにしている。

勿論、大先生からお教えを受けたことは確かである。突然、我々が稽古をしている道場にお入りになり、「そんなに力を入れなくてもいい」とか、「天の浮橋に立たなければならない」とか言われて短い演武をされたり、神様のお話や宇宙天地のお話はよくされた。どんなお話をされたかは、『合気神髄』『武産合気』にある通りである。それを読めば分かるように、手足をどう動かす、技はどう使う等、具体的、実践的な教えはなかったと思っている。

さて、大先生は何故、学校の先生のように、門人たちに技を具体的、実践的に教えて下さらなかったのかということであるが、その答えは次の文章にあると思う。
「人々は皆、私の家族であると感じる。己の行はこの家族に教えるのではなく、皆に行うものである。」(合気神髄P.46)この文章にある“人々”を“門人”に変えてみると分かり易い。つまり、「門人は皆、私の家族であると感じる。己の行はこの門人に教えるのではなく、門人に行うものである。」となるから、大先生は門人に教えるために修行しているのではなく、また、修業して教えるのではなく、修業することが門人の教えになるようにしているということである。
簡単に言わせて貰えば、己の修行を黙々とすること、己の最高の技を見せる事、己の日々変わる姿を見せる事が、門人たちに対する最高の教えであるという事だと考えるし、確かに今の私にとって最高の教えになっていると思う。

今の合気道の先生方は、門人や生徒に合気道を事細かく教えなければならないだろうし、教えるテクニックも大事だろう。しかし、根底には大先生の教え“門人の教えになるように修業しなければならない”と思っている。
また、我々のような古株たちも、後輩たちに対して直接教えるだけではなく、行する姿や変わっていく姿、ここまで出来るという可能性などを見せること等で教えになるようにしなければならないと思っている。