【第738回】 浅野和三郎の霊魂観

魂に関していろいろ知ろうとしているが、最近、『人は死なない』(矢作直樹著)という本に出合った。矢作直樹先生は、東京大学大学院医学系研究科救急医学分野教授および同医学部附属病院救急部・集中治療部部長歴任した医師である。お医者さんが「人は死なない」などという事に興味を持ったことに、この本を読ませて貰ったが、中々面白く、合気道にも非常に参考になる。
それは合気道でも重視されている霊魂観である。その矢作先生の霊魂観は、大正から昭和に“日本の心霊主義運動の父”として活躍した浅野和三郎の霊魂観を分かり易く要領よくまとめられたものであるようだ。因みに矢作先生は、同書の中で、合気道創始者である植芝盛平大先生の『武産合気』に触れられている。
大分長文になるが、その文章を引用する。

「近代スピリチュアリズムでは、霊魂はレベルの高い順に本体(mental body)、霊体(astral body)、幽体(etheric body)から成るとされています。また、霊・心・体といういいかたがありますが、これは心身(体と脳機能によって活動する心)とそれを司る霊の統一表現です。日本では、最初にスピリチュアリズムを提唱した浅野和三郎がほぼ同じ概念で、霊魂は神体、霊体、幽体から成るとしています。いずれにせよ、表現は異なっても、近代スピリチュアリズムにおける霊魂と体に関する本質論は、共通しています。以下に、その考え方を簡単に紹介してみましょう。
まず、生死に関わらず肉体から離れても存続する存在を仮に「真体」と呼びます(真体は、肉体とまったく同じサイズ、スタイル、個性を持っているが電磁波のように肉眼では見えないとされる)。そして、肉体をまとっている(生きている)真体を「魂」、肉体を脱ぎ去った(他界した)真体を「霊」と呼びます。
 人間はコンピュータを内蔵した着ぐるみを着たようなものであり、電源を持った魂がコード(著者注:近代スピリチュアリズムでは「シルバーコード」と呼ばれ、日本では古来「玉の緒」と呼ばれている)でその着ぐるみと繋がり、スイッチを入れた状態になっている。この例えでいうと、魂はシルバーコードを介して電気を流し、着ぐるみおよびコンピュータを操作したりメンテナンスをしていることになる。
 ここでいう着ぐるみとは肉体、コンピュータは脳、魂によるコンピュータの活動が精神あるいは心、精神活動の状態が意識・無意識、精神活動の結果生まれるコンテンツが記憶である。なお、記憶は肉体の脳だけでなく魂にもカーボンコピーのようにまったく同じように共有される。
 魂自体は他の魂や霊と交感することができ、互いの姿が見え、声が聞こえ、自由に空間を移動することができるが、着ぐるみ(肉体)をまとうとそれらの能力は封じられる。ごく稀に着ぐるみをまとっても魂の機能が顕れる人間がいるが、そうした人々が一般に「霊感、霊力が強い人」と呼ばれている人々である。
 着ぐるみは、それだけでは動かない。電源を入れて動かすのは魂である。いわゆる体外離脱(幽体離脱)とは、着ぐるみを動かす魂がシルバーコードを切らず一時的に着ぐるみを脱いでいる状態のことであり、死とはこの魂がシルバーコードを切って(電気を止めて)着ぐるみを捨ててしまった状態のことである。そして魂を失った着ぐるみ(死体)は、朽ち果てていくだけである。」

見ての通り、合気道の植芝盛平先生の教えと、同じところもあれば、違うところもある。それは、浅野和三郎は、植芝盛平先生と同じく大本に入信し、教団内で共に有力な信者となり、そして彼は論客として活躍したと言われるからであろう。出口王仁三郎の鎮魂帰神の教えから霊魂を共に学んだ後、植芝盛平先生は合気道を創始し、合気道からの霊魂観をつくられ、一方、浅野和三郎は、スピリチュアリズム(神霊主義)の普及に努めたからであると考える。
つまり、合気道に於ける霊魂は、技を生み出すためのものであるが、浅野和三郎は、霊魂の存在、働きなどの普及に努めた、スピリチュアリズム(神霊主義)であったということであろう。

この書が面白く、参考になったと初めに書いたが、どここがどのように面白く、参考になったのかを、文が長くなりすぎるので書けなかったので、別のところで書くことにする。(合気道の思想と技 第738回予定)

参考文献 『人は死なない』(矢作直樹著 バジリコ社)