【第729回】 心を直す

相対稽古で技を練り合って稽古をしていると、今の世の中は物質文明社会であり、この物質文明社会から精神文明社会にかわるのは容易でない事が感じられる。大先生の教えの「三千世界一度に開く梅の花」には程遠いということである。何故ならば、魄を下にし、魂を表に出してつかう精進をしているはずの合気道家が、魄の領域から中々抜け出せないようだからである。大先生は、合気道で魄の物質科学を魂の精神科学に変え、それを世の中に広めて地上天国をつくる事が合気道の使命である、といわれているわけだが、広めるべく合気道家自身ができなければ、世の中も変わらないことになるからである。

相対稽古で、どのような物質科学的稽古をしているかというと、相手や相手の力を攻撃しよう、制しようとすることである。例えば、こちらが相手の手を取ると、相手は必ず自分の手を押したり、引いたりと動かす。これは小さな争いである。しかも、手を引くな、押すな、動かすなと注意してもそれが中々出来ないのである。自分の体なのに、自分の体が思うように働いてくれないのである。

何故、自分の体が思うように働いてくれないのかを考えてみると、体には体の本能があると考える。体の本能には、争いの本能 負けまいとする本能などがあり、押されれば押し返し、引かれれば引き返すのである。体は物質文明や競争社会の中にあり、所謂、魄の次元にあるのである。それが証拠に、体は、突然触れられれば無意識で反射運動するものである。

この魄の体をつかえるのは心である。心には多くの意味があるが、ここでは簡単に、見える体に対する見えない心の心とする。押しては駄目、引いても駄目と体に命じ、そして体をつかうのは心なのである。
技をつかう際、心は技とそして体をつかうことになるわけである。

心で技をつかうためには、物質科学から精神科学に変えなければならない。体主導から心主導に変えなければならないということである。
これを大先生は、「自分の心を直すことである」と言われているようである。魄から魂に変えることであり、これが合気の使命であり、自分自身の使命であると、大先生は次の様に言われているのである。
「人をなおすことではない。自分の心を直すことである。これが合気なのである。又合気の使命であり、又自分自身の使命であらねばならない。」(武産合気P.103) 

自分の心を直すことは容易ではない。体も心も物質文明社会にあるからである。しかし、難しくとも己の心を直さなければならない。合気の使命であり、自分自身の使命であるからである。勿論、直さなければ、技も効かない事になる。

心で技をつかう事を学び、心で技を掛けるわけだが、まずは心で体をつかうことを学び、そして相対稽古で心が体をつかうように、体が心を差し置いてしゃしゃり出ないように稽古をしなければならない。一寸でも心が乱れたり、心がお留守になれば体が暴れることになる。
体の稽古は目に見えるのでそう難しくはないが、見えない心での稽古は、慣れるまで容易ではないはずである。謂ってみれば、合気道は心の稽古ということになるだろう。