【第708回】 出来たところから次の次元の稽古へ

最近ようやく、10数年来試行錯誤を繰り返しながら探究していた正面打ち一教が多少出来るようになってきた。出来たなどというのはおこがましいとも思う。もし有川先生がご覧になったり、見る人が見れば、そんなものでは出来たというのはおこがましいと言われるだろう、と思うが敢えて出来たと言わせて貰う。何故ならば、自分自身が出来たと思うからである。それでは何故出来たと思ったか、出来たと言うのかということになる。

“出来た”ということはどういうことなのか、とりわけこの場合の自分にとってどういう事なのかを考えてみると次の様になる。

この三つがようやく揃ったことで出来たと思ったわけである。勿論、まだまだであり、更なる精進をしなければならない。出来たといっても、卵から雛がかえったようなものである。後はこの雛を育てていけばいい。

出来たということは、次の次元の稽古に入り、更に完成への道に進むことであると考える。出来たと喜んでいる余裕などない。
合気道の稽古には三つの次元(段階)があると思う:

<次元1> 基本の形を覚え、形を覚えながら、そして受けを取りながら体(筋骨、内臓)をつくっていく段階
<次元2> 基本の基本を身につける:腰腹と体の末端の手足を結んで使う、体と技を陰陽十字でつかう、呼吸イクムスビで技と体をつかうことである。
これらの合気道の技に必須なこの基本の基本を身につけないと、技は効かないし、好き勝手にやったり、倒せばいい、強ければいいと魄の稽古に更に進み、道を外したり体を壊すことになる。これを大先生は戒められておられる。
<次元3> 魂の学びの稽古へ:これまでの稽古(次元1、次元2)は主に、体をつくるための魄の稽古であると言えよう。しっかりした五体をつくり、体が法則に則って動くようにするのである。
今度は、これを土台として更に進むのである。
鍛えた体(手足、胴体、首)の魄を土台にし、その上に魂(念、心)を置き、その魂で己の体、技、相手を導くのである。

一教がこれほど難しかったのは、四方投げや入身投げなどの他の基本技(形)がこの次元1と次元2の段階でも何とか出来たと思えるのに対し、正面打ち一教は次元3でないと出来ないからだろう。特に、正面打ちで打ってくる相手の手を受けて、魄を土台にするのは至難の技であるが、必須であり、それが出来なければ一教にならないはずである。尚、魄が土台になるとは、そこに己の体の圧(体重)が掛かるという事である。これが腕の力の腕力でやっている次元1と次元2の大きな、つまり質的な違いである。

これで次元2を抜け出し、次元2の段階に入ってきたわけだが、これで満足しないで、この段階での更なる稽古を精進し、次の次元へ向かわなければならないと考えている。