【第707回】 魄に墜せぬよう

大先生の教えに、「魄に堕せぬように魂の霊れぶりが大事である。これが合気の練磨方法である。(武産合気P.73)」がある。合気道に於ける錬磨方法の教えである。ここでの合気道はそれまでの魄の稽古から次の魂の稽古への、そして魂の稽古での鍛錬法であると考える。従って、引き続き魄の稽古をしていれば、この教えは理解できないはずである。

この大先生の教えは非常に大事であると思う。特に、最初の「魄に堕せぬよう」という箇所に深い意味があると考える。
例えば、「魄に堕せぬよう」ということは、魄の力をしっかりつかわなければならない、しかし使いすぎては駄目、行き過ぎては駄目ということである。魄の稽古では、この魄の力をつかい続け、相手を倒したり抑えていたわけである。
相手と接した箇所に、しっかりした十分な魄の力を加えるのは、これまでの魄の稽古と同じであるが、この接して魄の力を加えたところから、今度はそれ以上の魄の力を出すのではなく、別の力を出していくのである。

この相手と接した箇所は相手との魄の境界線であり、魄のせめぎ合いとなる。ここで魄の力をつかえば争いになるし、くんずほぐれずの争いにならないまでも、相手はいい気持ちにならない。物理的と精神的な争いであり、広い意味の戦いである。

この相手と接した箇所は魄同士の拮抗点であるが、魄の土台となる。この土台は相手との接点の支点であるから動かさない。「接点の支点を動かさない」は法則だからである。しかし、この魄の土台をしっかり保持したまま動かさなければ、技をつかえないし相手は動かない。
働いてもらうのは、魄の力の代わりの「魂」である。これを大先生は、「魄に堕せぬように魂の霊れぶりが大事である。」(同上)と言われているのである。今のところこの「魂」を“念、心、精神”などとしているが、これでも相手はある程度動いてくれるものである。
しかし、「魂」の前に「気」をつかった方がいいと考える。魂の力、つまり魂の霊れぶり以前に気の力をつかうのである。
何故ならば、気の力の方が魂の力(魂の霊れぶり)より分かり易く、つかいやすいと考えるからである。
また、気の力は魄に近く、魄の稽古をしてきたものにとって身につけやすいと思うからである。大先生は、「ものの霊を魄といいますが、これは気力といいます」(合気神髄 P.102)と言われている。また魂は霊の霊であるし、気は霊の体であると、「高御産巣日は霊魂の根源の神、神産巣日は霊の体の根源となってつくられて、祖神とあらわれた。その代の神は人間の姿ではなくみな気のもとである。(武産合気P.110)」と言われているのである。

相手との接点に魄の土台をつくったら、今度はこれまでの様に魄の力に頼るのではなく、魄の力に墜せぬように、気の力、そして魂の力で技と体をつかうように鍛錬していかなければならないということである。
坐技呼吸法や片手取り呼吸法・諸手取呼吸法などは、魄に堕せぬようにする最良の練磨方法であると思う。繰り返して錬磨すればいい。