【第703回】 合気道的死と使命感

年を取ってきてますます死と使命感を考えるようになる。合気道のお蔭である。合気道を修業していると、いろいろなことが学習でき、分かってくる。また、合気道のコア(芯)ができてくると、このコアに関連する分野の事に興味を持つようになったり、教えを受けることにもなる。
死とか使命感などは、哲学者や宗教家が一生懸命に考えているだろうが、一般大衆はあまり真剣に考えることはないだろうし、本気で分かろうともしないだろう。しかし、死とか使命感とかは、人であるかぎり、一度は考えて、自分なりの答えを出しておくべきだろう。何故ならば、そうしないとお迎えが来た時バタバタするのではないかと思うからである。考えるべき事は考え、やるべき事はやっておくべきだろう。

合気道を長年やっていると有難いことにいろいろな教えを学び、身につけ、実践することが出来る。
例えば、使命もその一つである。合気道では、宇宙や地上にある万有万物で形あるものは、それぞれ果たすべく使命があるということであり、生まれてきたという事や生きているという事は、その使命を果たすことであり、使命との戦いなのである。
そして少し前から、自分にも使命があると実感しているし、それを果たそうと努力しているつもりである。
試練も与えられる。稽古でも、何度となく吹っ飛ばされたり、痛められたりし落ち込んだこともあったが、今思えば、これが使命を果たすために与えられた試練であったことがわかる。というのは、これらの試練からそれまで分からなかったり、意識しなかったこと等が分かったし、レベルアップしているからである。今はそれらの試練には感謝している。

しかし、先ず、“使命“などあるかどうかということである。合気道にも、自身の実感からも”使命“はあると確信する。
また、「第692回 使命感」で書いたように、日本画家の東山魁夷画伯は「人生の旅の中には、いくつかの岐路があり、私自身の意志よりも、もっと大きな他力に動かされている」(東山魁夷『風景との対話』)と言われているが、この大きな他力こそが“使命”であるだろう。

彼の著名な物理学者であるアインシュタインは、「今日の科学は、特定の物体の存在を証明することができるが、特定の物体が存在しないことを証明することはできない。従って、われわれがある物体が存在することを証明できなくても、その物体が存在しないということを断定してはならない」と言っているわけだから、“使命”が見えない、確証できないからと言って、無いということは出来ないはずである。
つまり、“使命”があるとは科学的に実証されなくとも、あると信じればあることになるから、信じることにする。

人の使命にもそれぞれある。例えば、子供を育てる。後進を生み、育て、成長させる。これは動植物の本来の使命である。例えば、ふんころがしは糞を片付けることが使命である。
人によってはそれぞれ別な使命もある。合気道の植芝盛平開祖は合気道をつくり、後進に伝承すること、先述の日本画家の東山魁夷画伯は画を作成し、人に喜びを与え、後世に残すこと等である。

己の使命に気がつかない人も多くあるようだが、己の使命に気づいて、また、無意識でその使命を果たそうとしている人も沢山いる。テレビなどで多くの人が、一つのコトにこだわって、それに挑戦しているのは、それをその方々は己の天からの、そして人類のため、地上・宇宙天国完成のための使命と思って頑張られているということであろう。それぞれの使命を各人が果たし、万有万物が果たしているから、世の中は面白く、上手く機能していると思う。

各人、万有万物の使命は、宇宙天国、地上楽園建設のためであるから、その使命を果たすにあたって、宇宙、天地は支援を惜しまないと考える。
そしてその使命を果たしたときが死ということになるのだろう。
勿論、私自身も使命を意識して、それを果たそうとしている。東山魁夷画伯が言われているように、自分の力とは到底考えられない、大きな他力が働き、導いてくれている。多分、この使命がある程度達成されたとき、お迎えが来るものと思っている。それは使命に挑戦している間は、お迎えが来ないということであり、死んだ時は使命が終わったということになるわけである。
死ぬことに恐れたり、心配するなどバタバタすることはない。使命を果たしていくだけである。後はあちらにお任せしていればいい。