【第702回】 天之御中主神と合気道

合気道の技は体(魄)と精神(魂)の二元の交流によって生み出していかなければならない。またそのためには、天之浮橋に立たなければなし、天之浮橋に立つ折は、天之御中主神にならなければならないと大先生は教えられている。

天之御中主神にならなければならないわけだが、この天之御中主神が難題なのである。何故ならば、天之御中主神を説明した文献がほとんどないと言われるからである。天之御中主神がどのような神なのかが分かなければ、天之御中主神になることも天之御中主神に繋がることもできない。

まず、天之御中主神に関しては、古事記や日本書紀にさえ次の様にしか記述されていないと大本教教祖出口王仁三郎聖師はいう。
「『古事記』にも、単に造化の第一神として、劈頭に御名称を載せてあるに過ぎぬ。『古事記」の筆録者たる太朝臣保万侶は、序文の初めに、“それ混元既に凝り、気象未だあらわれず。無名無為。誰か其形を知らむ”、と書いてあるだけであり、『日本書紀』の方では、本文に天之御中主神の御名称さえ載せず、単に此の神の性質の一小部分を捕え、“古天地いまだわかれず、陰陽分かれず、混沌溪子の如し”などと書いてあるだけだ。これも決してわざと書かぬのではなく、書きたくとも、とても窮屈な漢文などで書きこなすことができなかったのであろう。」(『世界更生第3号 「大本略儀」出口王仁三郎』)
と言われる。
また、出口王仁三郎聖師は、「天之御中主神は日本占有の神ではなく、世界各国で種々雑多な名称を付して読んでいるという。例えば、太極、天、梵天、エホバ、ゴット、ゼウス等を初め、種々あり、そして是に対する観念も、浅深大小、決して一様ではないようだが、畢竟我皇典の天之御中主神を指すものである。只此神の徳性が余りに微妙、幽玄、広大無辺なるがために、大抵の経典は、辛うじて神徳、神性の一小片端を捕うるに止まり、世界中何処を捜しても、此神に就いての観念を伝え得たものは一つもない」という。(同上)

そこで出口王仁三郎聖師は、天之御中主神を簡単に述べると、無限絶対、無始無終に宇宙万有を創造する全一大祖神、宇宙の大元霊であるとしている。そして、この天之御中主神は宇宙の外にもあらず、又宇宙の内にもあらずということで、この神は宇宙と合一状態にある、つまり、天之御中主神は宇宙の本体それ自身であるという。
また、天之御中主神の観念は、活機凛凛たる神霊原子が充実し切り、磅はくし切った至大天球、無始無終、永劫不滅に活動して至仁、至愛、至正、至大、み威を以って天地、日月、星辰、神人、その他万有一切を創造せらるる全一大祖神であるという。

「合気道は、自分が天之浮橋に立つ折は、天之御中主神になることである。自分がスを出し、二元の交流をして、自分にすべての技を思う通りに出してゆくことである。体と精神と共に、技を生み出してゆく。(武産合気P.101)」とあるように、体と精神を交流させるために、天之御中主神となって「ス」を出さなければならない。これを出口王仁三郎聖師は、「天之御中主神が万有を捲き収めて帰一せる絶対一元の静的状態が、即ち「ス」である。宇宙根元の「ス」は現に差別界に生息する人間では経験することは出来ぬが、小規模の「ス」は間断なく経験し得る。万籟声を潜め、天地間、寂たる境地は、即ち「ス」である。安眠静臥、若くは黙坐鎮魂の状態も、同じく「ス」である。「ス」は即し絶対であり、中和であり、統一であり、又潜勢力である。

合気道は天之浮橋に立ち、天之御中主神になり、そして「ス」を出さなければならない。
それでは合気道の道場ではどうしているかという事になる。道主の稽古時間にはこれをやっているのである。小規模の「ス」である。
先代の吉祥丸道主の時から現道主まで、稽古の始まる前は、換気を止め、窓を締めるのである。真夏の暑い日でも同じである。初心者や、まだこの「ス」の重要性が分からない稽古人は、何故、暑いのに換気を止め、窓を締めるのか分からないし、中には文句を言うのもいる。
天之浮橋に立ち、天之御中主神になり、そして「ス」を出して稽古をするために必要であるのだが、それは己自身で気がつかなければならないと思うので、それは言わないことにしている。

今回は、大本教の出口王仁三郎聖師の文章をつかわせてもらった。
出口王仁三郎聖師は植芝盛平大先生が師事した先生であり、大先生は多くの事を学ばれた。大先生の教えの中には出口王仁三郎聖師の教えがあるから、大先生の書かれている『武産合気』や『合気神髄』などで分かり難い所があれば、出口王仁三郎聖師の文章が助けになるかも知れないと思い、使わせて貰った次第である。また、これからもお世話になりそうである。


参考文献  『世界更生第3号 「大本略儀」出口王仁三郎』