【第692回】 しっかり掴ませる

黒帯になり、合気道の形を覚え、力もついてくると段々と相手を倒そう極めようと稽古をするようになる。相対稽古の受けの相手も同じように相手を倒そう極めようと稽古している。お互いに手の内を知ってくるようになると、その内に、力を入れてきたり、頑張ってくるようになる。そして相手に力を入れられたり、ちょっと頑張られると、それまでのように相手が倒れてくれないことがわかってくる。
一つの壁にぶつかるわけである。

この問題を解決しようと悩むことになるわけだが、一般的には二つの選択肢の解決法がある。
一つは、力をつけることである。力とは、所謂、腕力・体力である。腕力・体力があれば相手を倒したり極めたり出来るだろうと考えるわけである。勿論、ある程度の効果はあるし、力はあればあるほどいいから正解であるといえる。しかし、限界があることに後で気がつくことになるはずである。
二つ目は、力を抜いて稽古をするようになることである。自分が力を入れるから相手も力を入れるようだから、自分が力を入れずに技をつかえば相手も力を入れず、頑張らないと考えるわけである。

長年稽古を続けて行くと、年とともに第一番目の選択肢である“力をつける”稽古は出来なくなり、第二の選択肢である“力を抜く”稽古に走っていくことになる。しかし、誰もがこの方法の稽古に満足しているようには見えない。何故満足できないのかというと、自分が変わらないから、そして技が変わらないからだろう。それに目指す上達の可能性が見当たらないからであろう。

年を取ってくると、何が一番うれしいことなのかが分かってくる。自分が毎日少しでも変わることである。稽古をして、新しい発見をしたり、自分の出来なかったことが出来た時、知らなかった事が分かった時である。
稽古に自分の変化が無ければ、人は満足しないものであると思う。
つまり、力を抜いた稽古をしていては、技も自分も変わることができず、稽古に満足できないのである。

壁にぶち当たってから、満足できる稽古、自分が変わる稽古、上達できる稽古、更に続けられる稽古のためにどうすればいいかということになる。
自分で力を抜いたり、相手に力を抜いてもらうのではなく、相手にしっかり掴ませて稽古をすることである。相手にしっかり掴ませるためには、自分がしっかり掴んでやればいい。前述の第二の選択肢である“力を抜く”の逆である。

例えば、諸手取呼吸法で、こちらの手を相手がしっかり掴んで来れば、恐らく掴まれた手は動かないだろう。なーなーでやっていたそれまでは、相手が倒れていたのに、手さえも動かないのである。腹が立つし、悲しくなるだろう。
しかし、これが本当の稽古なのである。何故か。出来ないから、何故出来ないか考え、どうすれば出来るようになるかを模索する事になるからである。なーなーでやっていた時はそんな事はしなかったはずである。出来ていたと思っていたからである。これでは稽古にならない。

相手がしっかり掴んでくれれば、技が生まれるのである。技も体も法則に則ってつかわなければならない事がわかるのである。例えば、強く掴まれた手は、引っ張っても動かないか、切り離れてしまうものである。相手と結び、相手を導くためには手を十字々々に返さなければならない等が分かってくるのである。

壁にぶつかったら、基本に戻ることである。剛の稽古に戻るのである。習い事には剛、柔、流の稽古法があるが、最初の剛の稽古に戻るのである。しっかり掴ませ、しっかり打たせた稽古をするのである。体を剛にし、剛の技をつかうのである。諸手取呼吸法も他の技(形)も剛でつかうのである。
剛の稽古法に目途が付けば柔の稽古、そして流の稽古にしていけばいい。
この逆での流、柔、剛の稽古は、その壁を破るためには難しいと考える。

まずは、しっかり掴ませて、出来ない事が分かるところから始める事である。