【第635回】  心で、心の修業

合気道の稽古は基本の形(かた)を覚えることからはじまる。そして形を覚えながら、体をつくり、力をつけていく。
形を覚え、体ができ、力がついてくると、稽古相手を倒したくなるし、決めたくなる。しかし、形で相手を倒すことも決める事もできないのだが、それになかなか気づけないものである。中にはその事に気づく稽古人もいるが、その問題をどう解決すればいいのか、その壁を打ち破れるのか分からず、悩んでいるのである。

この時期の稽古は、腕力や体力に頼った魄の稽古をしているわけだが、力をつかっては駄目なら、力を抜けばいいとばかり、力を入れないようにと、気までも抜いた腑抜けの稽古をすればいいと思っている人もいる。

腕力や体力の魄の稽古から抜け出すためには、まずは、息で体と技をつかえばいいと書いた。(第630回『息で体と技をつかう』)
腰や手足の体で技を掛けようとせずに、息で体を導き、息で技を掛けるのである。詳しくは『息で体と技をつかう』を見て下さい。

さて、この息、呼吸の次の段階の稽古であるが、それは心であろうと考える。これまでの魄一辺倒の魄の稽古を魂魄結合した稽古にすることである。そのためには、心を働かせなければならないのである。大先生は、「阿吽の呼吸の気の禊ぎによって、心で身を自由自在に結ぶ。すなわち魂魄の結合の武の本義を現わす」(合気神髄P.96)とも言われているのである。

魄の稽古から魂の次元へ移るための心のつかい方や働きとして、
まず、相手と対峙した際は、「自分の心に相手を包むような雄大な気持ちで対すれば、相手の動作を見抜くことができる」(合気神髄P.97)。
太刀さばきなどで、阿吽の呼吸で対峙する際は、この雄大な気持ちになれる。

次に、己の体を、手、足、腰と心で結び、そして心と体の一致をする。これを大先生は、「手、足、腰の心よりの一致は、心身に最も大事な事である」(同P.98)と言われている。手と足を腰と結び、腰で手と足の体を心のままに使う事が大事であるということであろう。これは、前出しの「阿吽の呼吸の気の禊ぎによって」できるわけである。

更に、技を掛ける際も、心で相手を導くことであると、「相手が引こうとしたときには、まず相手をして、引こうとする心を起こさしめて引こうとするように仕向ける」(同P.98)つまり、魄の稽古の時の力の誘導ではなく、こちらの心で相手の心を誘導するのである。

このように心によって体をつかう技をつかっていくのである。心が乱れて、例えば、相手をやっつけてやろうと腕力に頼ったり、法則違反の動きや息づかいをすれば、魄の次元に戻ってしまうから、心が乱れないようにしなければならない。

しかし、乱れる心を乱れているぞ、駄目だぞと云う、何かがあるわけである。それは以前にも書いた「真の心」であり、宇宙の意志とも云われる「魂」ということになる。つまり、心には二つあるわけである。この二つの心が合致したときに、自由自在に体が動き、技がつかえることになるのだろう。

これまでは、魄の世界の稽古をしてきたわけだが、魄の世界は物質文明であり、それ故、相対的な稽古である。
心の稽古の次元になると、相手との戦いではなく、己自身、己の心との、所謂、絶対的な戦いとなる。一つの技を掛けるに際して、初めから最後まで、心を籠め、心で眺め、そして心で収めるのである。しかし、これは魄の稽古と比べると中々難しい。少しでも油断すれば魄の稽古に引き戻されるものである。

魄の壁を打ち破るためには、息づかいに次いで、心での稽古に入っていかなければならないと考えている。