【第567回】  古き衣を脱ぎかえ、成長達成向上

過って大先生はよく、合気は日々変わらなければならないと言われていた。しかしわれわれ若い稽古人にはよく理解できなかった。もしかしたら、技が日々変わるのかと思ったりしたが、そうだとしたら稽古をどうすればいいのかとまどったものの、相変わらずのドタバタ稽古を続けていた。

「合気神髄」で開祖は、「合気は日々、新しく天の運化とともに古き衣を脱ぎかえ、成長達成向上を続け、研修している」(「合気神髄 P 181」と書かれている。これまで何度も目にした文章であるが、あまり気に留めていなかった。だが、今回この文章がいやに気になり、研究してみることにした。

人は変わらなくなった時が死であるし、元気な子供などは毎日どんどん変わっていく。変わることは意味があり、大事なことであることは確かである。
合気道においても、技の向上、合気の上達は変わっていくことである。変わらなくなった時は、通常生活での死に相当する、修業の終焉ということになる。

開祖は、天が一瞬たりとも止まることなく運化しているわけだから、合気道でも変わり続けなければならないといわれているのである。そしてその変わり方は、古き衣を脱ぎかえながら向上していくのである。古き衣とは、一生懸命に修業して得たものを捨てて、また、新たなものを得て行く、の繰り返しという事である。一度会得したからと、それにしがみついていると、古い衣で動きが取れなくなり、変われなくなるのである。

変わるものは2つある。一つは、自分自身である。自分自身の衣を脱ぎ捨てて行くのである。例えば、呼吸法を例にとってみると、まず、片手取り呼吸法で相手もこちらの手を一本の手で押さえてくるから、一本対一本である。一本どうしの稽古ということになる。ここから多くの事を会得する。
次に、諸手取になると、こちらの一本の手を相手は二本の手で掴んでくるわけだから、それまでの一本の手でやったようにはできない。一本でやってきたやり方を忘れ、相手の二本の手より強いものに変えなければならないことになる。それは腰腹である。手での力から脱皮して腰腹からの力に脱ぎかえるわけである。
しかし、相手も腰腹でこちらの一本の手を掴んでくると、また、力は拮抗することになるので、更なる工夫が必要になる。例えば、それまで力一杯振り回していた手を、十字につかったり、踏ん張って力を出していたのを、左右の足を陰陽でつかうように等と脱皮していくのである。
一度会得したモノを捨てるのは中々難しいだろうが、捨てなければ新しいモノは生まれないのである。脱皮とは古いモノを脱ぎ捨て、新しいモノを生むことである。

もう一つは、自分以外のものである。例えば、開祖が修業をはじめられたころはやるかやられるかの厳しい時代で、膂力、体力が重視され、技も相手を倒し、投げたりするものであったろう。自動車や重機もない時代で物事をまだ力で解決するような社会だったから、巷にも力持ちが多くいたわけで、そういう時代や環境下では、今では想像もできないような膂力の稽古をしたはずである。もし、今、その当時の稽古をしたとしたら、誰からもひんしゅくを買うはずである。

私が合気道に入門した頃は、まだ、何としても相手倒したり投げるべく、柔術的な稽古をしていたようで、開祖は、合気道は力ではない、力は要らないなどと注意されていたし、合気道は以前(戦前、終戦直後)とは違うとよく言われておられた。
しかし、私が入門して2,3年目には、それまで合気道は気育知育徳育常識涵養だといわれていたのに、それに体育を加えられたのである。一般の入門者が増えてきたが、武道をするには体が問題であり、体も養成しなければならないといわれたのである。実際、力を抜いた稽古をしているのを開祖に見つかると、開祖はもっと力一杯やれと、激しく叱られたものである。
このように開祖の教えでも、どんどん変わってきたのである。開祖の教えもそうだが、社会や時代からの脱皮も必要なのである。

技をつかうにあたっても、また準備運動においても、例えば、息づかいは3度も4度も変わってきている。いつもこの息づかいが最高で、これ以上は変わらないと思ってやってきたが、変わっていくのである。最近、また、新しい息づかいへの衣替えがあった。仙骨での息づかいである。後日紹介するつもりである。
脱皮に終わりはないようである。