【第313回】 ロダンの言葉と合気道
先日、「考える人」で有名な彫刻家ロダンのテレビ番組をみて、彫刻家も合気道開祖と同じような思想をもっていたということに驚いた。おかげで、合気道も芸術も、結局は宇宙を対象に仕事をしなければならないということを再認識できた。
ロダンは、フランスの彫刻家である。19世紀を代表する彫刻家で、「近代彫刻の父」といわれている。「考える人」(写真)や「地獄門」などは上野 国立西洋美術館にも展示されている。教科書にも載っているので、誰でも知っていることだろう。ロダンの彫刻の特徴は、独特のポーズによる筋肉の表現だと思うが、とても人が考えてつくったとは思えないほど摩訶不思議で、すばらしいものである。
テレビ番組の中で、ロダンは彫刻する美の対象に対して、「美はいたるところにあります。美がわれわれの眼を背くのではなくて、われわれの眼が美を認めそこなうのです」といっている。
これを合気道の世界で考え、「美」を「技」に置きかえると、「
技はいたるところにあります。
技がわれわれの眼を背くのではなくて、われわれの眼が
技を認めそこなうのです」となる。芸術も合気道も、われわれが求めているものは既に用意されているのに、眼で見えないだけなのだ、ということである。
それで、ロダンは他にどんなことをいったのかと、興味をもった。同じ彫刻家であった高村光太郎の訳になるロダンの言葉を調べると、合気道でいわれていること、つまり開祖の言葉と共通することが多い。そのいくつかを見てみる。
- 「私は何にも発明しません。私は掘り出すのです」
※『ロダンの言葉抄』高村光太郎訳以下同
合気道でも、技は発明したり創造するものではなく、探し出すものである。開祖は、「武産合気は、悉く神代からのみそぎの技を集めたものです」といわれているように、技は神代からあるのである。
- 「宇宙には緊急な、致命的な、動かせない法則がある。なければならぬ」
合気道でも、技は宇宙の条理、法則に則っていなければならない。
- 「自然はつねに完全です。決して間違いはない。間違いはわれわれの立脚点、視点の方にある。骸骨にすら美と完全とがある」
合気道でも、少しでも完全な自然に近づくように鍛錬しなければならない。自然とは多すぎも少なすぎもしない。だから美しく、正しき、強い。真善美である。合気道は真善美の探求である。
- 「芸術とは自然が人間に映ったものです。肝腎な事は鏡をみがく事です」
合気とは小戸(おど)の神業で、宇宙のひびきをことごとく自分の鏡に写し取り、実践する。従って、どちらも自分の鏡を磨くことが大事になる。
- 「凡庸な人間が自然を模写しても決して芸術品にはなりません。それは彼が『見』ないで眺めるからです」
合気道の技の錬磨をする場合も、開祖のDVDや師範の技を眺めているだけでは技にならないし、上達はない。みなければならない。みるは「観る」であり、見えないもの、例えば心や思想・哲学を観ることである。
- 「肝心なことは、感動すること、愛すること、望むこと、身ぶるいすること、生きることです。」
これは合気道でももちろんのこと、仕事でも、遊びでも、生きていく上で肝心なことであろう。これがなければ、稽古にもならないし、生きていることにもならないだろう。
彫刻(芸術といってもいいだろう)や合気道の対象は宇宙であり、人間ではない。宇宙がすべて必要なものを取り揃えて準備してくれており、そこには法則がある。法則に従って仕事や稽古をしなければならない。
おそらく合気道が追求しているもの、修行の方法、考え方、思想等は、時と場所(宇宙)に関係なく、取り入れられるはずだし、そうあるべきであるといえよう。それを彫刻家ロダンも保障しているのである。
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