【第280回】 自己練習

合気道は老若男女、老いも若きも子供でも稽古ができる。試合もないので、怪我や事故は少ないし、スポーツの勝負に対するような緊張もない。指導者に従えば、2,3年も稽古すると受身が取れるようになるし、基本技もそこそこできるようになるものだ。

この段階でどれだけうまくなるかは、指導者の言うことをどれくらいよく聞くかによるだろう。

合気道の基本技はそれほど多くないが、取り(攻撃法)と掛け(攻撃人数)の組み合わせで技数は多くなるし、応用技や変化技は数千になるといわれる。基本技を覚え、有段者になると、技の数を増やそうとする傾向があるようだ。中には奇妙な技を発明して、悦にいっている人もいる。技の数を多く知ることが上達と考えてしまうようである。

技がうまいというのは、掛ける技の深さであって、技の数の多さではない。だから、稽古は広く浅くではなく、狭く深くでいかなければならない。

技がうまくなるためには、技をどんどん深く掘り下げていき、自分の体を細かく分けて、より繊細に使うようにしなければならない。ただ安易に技の形をなぞっているようでは上達はない。

合気道では、指導者は技の形を示して、その技の形をみんなで稽古する方式を取っている。しかし、学校形式での稽古なので、技の説明や技のつかい方などを細かく教えることは難しい。

深い技を身につけるためには、昔のような、師と弟子との一対一の稽古でやるか、もう一つは、自己練習をすることである。合気道は、その問題を知りながら一対多数の学校形式を取ったと思うが、その問題を解決するために、自己練習の重要性と必要性を強調している。

私が入門した頃には、旧本部道場の一隅にまだ「合気道練習上の心得」が掲載されていた。これは、開祖の合気道技術書である『武道』(1938年)の中の「練習上ノ心得」を掲載したものであると思うが、その第4章に、
「指導者の教導はわずかに其の一端を教わるに過ぎず、之が活用の妙は自己の不断の練習により始めて体得し得るものとす。いたずらに多くの業を望まず、一つ一つ自己のものとなすを要す」 とあった。

この「合気道練習上の心得」は、『合気道』(植芝盛平監修  植芝吉祥丸著)にも掲載されている。

つまり、指導者は技の一端しか教えることができないわけだから、後は各自が自己練習によって、それぞれ技を深めていかなければならないということである。本部道場では昔から現在まで、稽古時間が終わった後でもこの自己練習のために道場をつかえるように配慮しているほどである。

だから、指導者に教わるだけでなく、自己練習を不断に行わなければならないのである。

また、吉祥丸先代道主は「一つの基本技を何度も何度も繰り返して練習する中に、それが自己のものとなり、無数の変化技が自由に使えるようになるものである。技の数のみを追うと、自分を振りかえって見た時、何一つ身についたものがないという悲しみにぶつかり、遂には興味を失ってしまうことになる」(同上)と言われている。

自己練習で基本技を繰り返し稽古し、自己の技を深めていかなければ、何も残らず、合気道を止めることになるかもしれないと警告されているのである。合気道を続けたければ、自己練習を怠らずにやらなければならないことになろう。

参考文献   『合気道』植芝盛平監修  植芝吉祥丸著