【第238回】 原点にもどる

合気道は勝負を目的に稽古するものではないし、試合もない。それゆえ、無理せずに、自分に合わせて稽古ができるし、基本の技の数はそれほど多くないから、誰でも数年で覚えられるので、男女の区別なく子供から高齢者まで多くの人が稽古しているのだろう。

しかし、習い事で容易なものなどない。合気道も気楽にはじめることはできるが、後が大変なのである。合気道は欧米の大学のように、入るのは容易であるが、入ってからが大変で、出るのが難しいのである。5年10年はおろか、40年50年掛かっても、出られるかどうかはわからないものである。

初心者は2〜3年で受身が取れるようになって、基本技の型を覚えるようになると、合気道ができたとか技ができるようになったと思ってしまうものだ。しかし、ここからが真の合気道稽古の出発点なのである。つまり、本格的な稽古をはじめるのは、技の型を覚え、そのための体がある程度できてからということになる。稽古はここからが勝負なのである。

これが初段である。ここからは、稽古の次元が違ってくるのである。それまでのように、指導者から懇切丁寧に技の型や動きを教わって上達するものではなくなる。なぜなら、技は教えることが難しいからである。技は自得していかなければならない。だから、昔の人は、技は盗めと教えている。盗むことは、自分の実力レベル相応にできるが、教えるのは教える側と習う側のレベルが異なるので、ミスマッチングするからである。教えることができるとしたら、一対一の個人稽古だろう。

合気道は技の練磨を通して精進する道である。容易なことではない。やるべきことは沢山あり、それをひとつひとつ自得していかなければならないからである。

自得していくにしろ、しないにしろ、稽古を続けていくと壁にぶつかる。その壁は非常に厚くて、打ち破るのは難しいのである。しかし、それを打ち破らなければならない。それができなければ、稽古を辞めることになるだろう。長年稽古を続けてきたひとが辞めていくのは、その壁を破れなかったからではないかと想像する。

壁を破るためには、合気道の原点にもどることである。合気道ができた、分かったということを、否定することである。合気道について、ゼロから学び直すことである。学ばなければならないことは無限にあるが、例えば、「技(わざ)」である。合気道を精進するために練磨する「技」とは何かを考えなければならない。

初心者は「技」を「技の型」と理解しているため、技の型をなぞっているだけであり、それは合気道で練磨すべき「技」ではないと思う。技の型(例えば、正面打ち入り身投げ)をなぞるだけなら、誰でも数年でできるだろう。そんな数年でできるようなことを、我々が目的としているはずがない。一生掛かってもできるかどうか分からないような、容易ではないことをやっているはずである。

「技」とは何かが分かるようになるためには、基本技を繰り返し稽古することだろう。一教、四方投げ、入り身投げ、それに呼吸法(諸手取り、坐技)である。その中でも、一教が最も大事であると考える。もし技の鍛錬でどうしてもうまくできないことがあれば、一教に帰るのがいいようだ。一教がどうも、合気道の極意技であるように思える。

次に、体にカスが溜まっていることを自覚することである。カスが溜まっていれば、体が上手く働かず、技は上手く遣えない。カスはよほど意識して、忍耐強く稽古をしなければなかなか取れるものではない。一教、二教、三教、四教などはカスを取るための技ともいわれるのだから、一教から四教までしっかりやるのがいいだろう。特に、受けは多少痛くとも我慢してとらなければならない。はじめは多少痛いだろうが、カスが取れ、筋が伸びると、気持ちのいいものである。一教の受けほど、気持ちのよいものはないはずである。

原点にもどる3つ目は、意識と呼吸である。それまで無意識で動いていたものを意識を入れ、意識に体の動きを合わせるようにすることである。また、無意識でやっている呼吸の研究も必要であろう。合気道ではこの呼吸(いき)を重視しているのである。

合気道で遣われている基本用語の研究も必要であろう。それまであまり深く考えないで見たり使ったりしていたであろう言葉を、研究することである。例えば、合気道とは何か、合気とは何か、前にもいった「技」とはなにか、一教と二教と三教の違いは何か、呼吸法と「技」はどこが違うのか等など、知らなければならないことはいくらでもある。

自分がまだまだ何もわかっていないことに、気がつけばよい。そこから、再出発できる。原点にもどれば、一度は後退するが、その後はそれまで以上のスピードで進歩するだろう。保証はできないが、可能性は見出せるだろう。