【第126回】 合気道と合気柔術

合気道には試合がない。試合がないということは、何々トーナメントとか何々タイトルマッチという試合がないということだけではない。通常の稽古でも勝負を目的としてやったり、また相手を倒すことを目的にやってはいけないということである。しかしそうかといって技を掛けて、相手が倒れないのは未熟であり、より一層の稽古が必要である。

相手を倒すことと、相手が倒れることには、結果として倒れるという共通点はあるものの、大きな違いがある。倒すとは目的が倒すことであり、倒れるとはプロセス(過程)の結果であり、そのプロセスが正しかったということである。相手が倒れるのを目的にするのか、相手が倒れるためのプロセスを大事にするかという、大きな違いがあるわけである。

合気柔術もそうだが、柔術は攻撃してくる相手を倒し、制することを目的とした術(テクニック)を学ぶものである。そのため数多くの有効な技を学ぶことになる。従って、柔術では、段が上になればなるほど多くの技を知るようになる。一方、合気道では段が上になっても、技の数が増えるわけではない。昇段審査でも、試験の技は、攻撃法が多少違うだけで、初心者のものとほとんど同じである。合気道の昇段審査は、巧妙とか複雑な技ができるかどうかではなく、基本技を遣うための動き、手足遣いである「わざ」、つまり「プロセス」を見るのである。

また柔術では、相手に勝つためには手の内は明かせないから、昔は勿論のこと、今でも技や稽古風景を公開しないところもある。だが、合気道は勝負を目的とするのではない自分の稽古なので、他人に技を見られても少しも問題ないし、他人を殺すための秘術とか秘伝もないので、どの道場でもすべてを公開しているはずである。

合気道は柔術とは違い、相手を倒すのが目的ではないから、倒すことを目的にした稽古をすれば、合気道でなくなってしまうことになる。しかしながら、合気道でも最後は相手が倒れていなければならない。ただ、倒れるのは正しいプロセスの結果でなければならない。つまり、理に合った「わざ」と技をやった結果として倒さなければならないのである。もし相手を倒しても、プロセスが間違っていれば、相手も自分も納得できないし、満足できず、時として争いになってしまうことになる。

相対稽古で相手を始から倒そうと力んでしまえば、相手はそれを敏感に感じ、倒されまいと反応する。合気道では、理に適った「わざ」を掛けると、相手が崩れ、そして相手は自分から倒れていくのである。その倒れるのを少し手伝えばよいのである。合気道には力は要らないといわれるのは、ここのところであると考える。

合気道もかつては合気柔術と呼称し、柔術的な時期もあった。昭和36,7年頃まで、本部道場では首を絞めたり、羽交い絞めにしたり、後ろから腰を押さえつけたりした攻撃に対する稽古や、また当身が重要だというので当身を入れ合って稽古したように、まだ柔術的な要素が残っていた。合気柔術は、今や合気道になり、そして合気道から宇宙の法則を身に構築するための武産合気に変わろうとしている。先ずは、合気道と柔術との違いを悟り、真の合気道をしっかり修練し、次の武産合気へ進まなくてはならないだろう。