【第408回】 老いとも仲よく

年を取ってくると、頭も体も衰えてくるものだ。しかし、その衰え方は、頭と体でも違うし、人によっても違うようだ。頭はザル頭になり、多くのものがザルの穴からこぼれ、多少のものだけがザルの網目にしがみついている、というようになる。しかし、もう営利を目的としている仕事もあまりしなくなるだろうから、生きていく上で問題はないだろう。逆に、どうでもいいようなものが穴からこぼれ落ちるから、かえってよい。

体も衰えていくことは確かである。だが、衰え方は千差万別のようだ。毎日会って見ていると、あまり気がつかないが、たまに会うと、衰えの様子がよくわかったりする。一般的に、稽古などで体を動かさない人、気持ち(心)までが年を取ってしまった人などは、衰えが早いといえるように思う。

気持ちの衰えとは、自分は年を取ってしまったので体が動かない、とか、力が出ない、上達がない、などといったり思ったりすることから来るものであろう。たかだか60、70歳で、もうそんなことをいっているようでは、後はお迎えを待つしかないだろうから、衰えるのも当然のように思える。

50,60歳は、まだ世の中のことや自分のことも分からない「鼻ったれ小僧」だと、開祖はよくいわれていたが、この頃は、正しくその通りだと思う。日本人の平均寿命が80数歳になっているのだから、その平均年齢まででも10年、20年ある。ましてや、今は100歳以上の人が3万人以上もいるというから、100歳まで生きるとしたら、まだ、30年、40年もあるのである。

合気道は容易な武道ではなく、時間がかかるものである。若いときに体を鍛え、いろいろと教わったことが、身についてくるのが、だいたい50歳とか60歳くらいであろう。その後、それらを基本にした本格的な稽古が始まる、と考える。60、70歳ででき上がってなどいられないだろう。

合気道の道場で稽古を続けている人を見ても、老いるのが遅いようである。多くの人は年齢不詳であるといってよい。これはどこから来るのか、考えてみよう。

年と共に、体は衰えていく。これは、自然の摂理である。もし武道などで体を鍛えなければ、年の流れに沿って年を取っていくことだろう。

だが、武道などで体を鍛えることによって、年の流れにブレーキがかかり、体の衰えにもブレーキがかかるのではないかと思う。ブレーキがどれだけかかるかは、鍛錬の質と量によるだろう。

質のよい鍛錬とは、宇宙の条理・法則に則った鍛錬である。その意味で、合気道の稽古は、衰えの流れにブレーキをかかる最高のものであるはずである。ただし、衰えの流れよりも、鍛錬の質と量のブレーキが弱いと、それだけ衰えることになるだろう。

鍛錬の量とは、稽古量である。限られた時間でいかに密度の濃い稽古をするか、また、稽古時間以外ででもいかに多くの稽古をするか、にかかっている。

しかし、また、どんなにブレーキが強くても、衰えの流れを止めることは不可能であろう。老いの流れをスローにすることはできても、止めることはできないはずだ。

衰えの流れにブレーキをかけるのは、肉体的鍛錬のほかに、精神的な鍛錬があるだろう。合気道は、スポーツのように相手と勝ち負けを勝負するものではなく、自分との闘いである。相手に勝つために稽古をするのではなく、自分に勝っていくのである。他人の強さやうまさには関係なく、昨日の自分に勝ち、今日の自分に明日の自分が勝つようにするのである。

今、今日を大事にしなければならないが、今、今日できなくてもよい。明日、来年、10年後にできればよい。そう考えることである。

練磨する技をうまくつかうためには、先生や先輩や先人の教えを研究し、身につけていかなければならない。それがなければ、現在もないし、未来もないだろう。合気道では、現在のために、過去と未来にも生きなければならない。つまり、過去現在未来に生きているのである。老いなど超越することになるのではないか。

私は老いを楽しみにしている。できれば早いところ80歳、許されるならば90歳になりたいものだと思う。80歳、90歳で、どんな稽古をするのか、楽しみなのである。

それまで、老いとともに衰える体と精神(心)とは、仲よく付き合っていきたいと思っている。