【第355回】 発見と驚き

喫茶店や電車の中で、よく高齢者同士の会話が耳に入る。他人の話など別に興味もないので、聞きたくもないが耳に入ってくる。楽しそうなよい話題のものもたまにはあるが、ほとんどは金とか財産とか土地とかのモノの話と、それから来る争いの話なので、聞いていても気が重くなる。

自分には金も財産もないので、金持ちや物持ちの気持ちや問題は分からないが、先が見え始めている高齢者が、相手を押しのけてまでさらに金や財産を増やそうとか、土地を広げようなどと話し、残り少なくなっていくエネルギーをつぎ込んでいるのは、滑稽だし、哀れに思える。

もちろん、開祖も言われる通り、経済は必要である。人として生きるための最低限の経済は必要である。しかし、人は立って半畳、寝て一畳。飯はせいぜい日に三回である。金持ちも貧乏人も、同じである。中身は若干違うかもしれないが、たとえ貧しくとも、その中にいれば気にならないはずである。

そのようなことが気になるのは、対照的であるもの(例えば、冨と貧など)を比較し、自分が対照の極になったときの恐れを抱くからであろう。

かつて御蔵島という所で、道路建設のアルバイトを3カ月ほどしたことがある。昼休みには、自分たちが建造している道路に工事用の板など敷いて、ホームレスのようにごろ寝をしていた。汚れた作業着に長靴姿を見る人がいると、哀れでかわいそうと思ったことだろう。しかし、寝ていると、お腹は一杯だし、春の陽射しが気持ちよくて、人がどう見ようが関係なかった。かえって、町で忙しく歩き回っている人たちのことを、哀れに思ったりしたものだった。

高齢者になったら、そろそろお迎えの準備をした方がよいだろう。準備とは、この世を離れる時、自分はやりたいことはやったし、やり残したことはないから、満足々々、と思えることだろう。その為に、とりわけ大事なのは、高齢者の時期をどう過ごすかではないだろうか。

それ以前の時期は、会社や社会のために時間やエネルギーを使っていたはずだし、嫌なこともやらなければならなかっただろうから、真に自分のために時間や労力をつかうことは難しかっただろう。真に自分のため、そして、これまでやろうとしても出来なかったことが出来るのは、高齢者になってからである。言葉を変えていえば、高齢者とは、自分のために時間やエネルギーを使えるようになった人、ということができるだろう。

高齢者になって考えると、若いころは、主に周りからの発見から驚きや喜びを得たようだが、高齢者になると、真の驚きや喜びは、自分の中、自分自身に見つけるようになるようだ。若い時は、学校で新しいことを学んだり、親兄弟や友達、テレビや映画などから新しいことを知ったり教えて貰えば、驚いたり喜んだりしたものである。また、若いころは主に「もの」に感動するということもできるだろう。

これに対して、年を取ってくると、「もの」より「こころ」に感動するようだ。純真な子ども、花鳥風月など自然の姿などに、多くの発見があり、喜びを得、感動するようになるようだ。

また、自分の体の神秘や働き、「こころ」の不思議等など、自分自身のものを、誰に教わるでもなく、自分自身で発見していくのが、真の驚きであり、最大の喜びになっているようだ。たとえ、悪魔がその発見の喜びを100万円と交換しないかといってきても、恐らく悪魔の提案はお断りするだろう。

自分で見つけたことや、その喜びは、自分にとっての財産である。これはお金や物と違って、あちらにも持っていけるだろうし、少なくともあちらに行く直前、自分の人生を回顧する瞬間までは、身についているはずである。

人生とは、発見と驚き、そして感動ということかもしれない、と考えている。やっと自分というものが分かるための入口に入ったようで、毎日が発見であり、驚きと感動である。これも合気道のお陰であり、開祖をはじめ、師範や先輩のお陰であると感謝している。