【第312回】 極小と極大で

定年が60歳や65歳で、そのまま社会の一線から退くのは、非常にもったいないことだと思う。社会の大いなる損失である。なぜならば、人は60、70歳ぐらいになって、やっといろいろな事がわかり始め、何かができるようになってくるからである。

何歳までがんばれるのかは人によって違うわけだが、いわゆる高齢者になれば、若い時にはできなかったようなこと、違った仕事が、できるようになるはずである。コンピュータのキーを叩くスピードや体力では若者に敵わないが、総合力では高齢者の方に軍配が上がるはずである。

その証拠に、世の中、人類や社会に感銘を与えるような業績は、70,80,90歳になってからのものが多くある。

合気道でも、50,60歳は鼻ったれ小僧で、大事なことはまだまだ何もわかってないといわれたが、まったく同感である。

仕事でも同じだが、合気道の稽古でも、始めのうちは基礎を覚えなければならない。大事なことを区分・細分化し、それをどんどん深く掘り下げて、身につけていくのである。より正確に、繊細にしていくのである。つまり、単純化、細分化、極小化ということができるだろう。

高齢になると、物事を見る目や考える視点が変わってくる。若い頃とは反対のベクトルである。若い頃には、考える支点は自分自身、家族、会社、社会、国ぐらいまでであったが、だんだんと世界、自然、宇宙となってくる。つまり、ベクトルは宇宙に向かっていく。

若いうちは難しいことでも、高齢者がすばらしい業績をあげられるのは、宇宙へのベクトルで仕事や稽古をするからだろう。

開祖は言うに及ばないが、画家のピカソやレオナルド・ダ・ヴィンチでも、音楽家のドビュッシーでも、哲学者のソクラテス、アリストテレスなど、宇宙へのベクトルで仕事をし、少しでも宇宙の果てのベクトルで仕事をしたいと思っていたはずだ。いわば、宇宙の果てまで広がる極大で、ということになろう。

この極大のベクトルにのって、はじめて本当の仕事ができるようだ。若い時の極小だけでは、まだ半分しかできないことになる。これを開祖は、鼻ったれ小僧といわれたのであろう。  

極大のベクトルにのってしまえば、若い時に身につけた極小も生きてくる。例えばピカソの絵を考えてみると、抽象的で形がない。しかし、その絵には、若いときに培った緻密で繊細な技術と心、極小を踏まえながら宇宙との響き合い、極大と一体化しようとする意志があるようだ。その極小と極大の矛盾が、我々に感銘を与えるのではないだろうか。

開祖は、合気道には形がないといわれていたが、最後はこの極大の宇宙のベクトルでやるのだから、若い時から鍛錬してきた極小は、ピカソの絵のように、極大に隠れてしまうということなのだろう。

しかし、極小の稽古を真剣にしなければ、極大を会得できないはずである。若いうちは、きっちりと、正確に、極小の稽古をし、そして年を取ってきたら、宇宙に広がる極大でやっていくべきだろう。