【第310回】 罪と絆

東日本大震災の後、「絆(きずな)」ということが言われるようになった。家族の絆、友達の絆、恋人同士の絆、人の絆等などである。

大きな自然災害と人災により、日本人はいうに及ばず、世界の人々の多くが、何かを感じ、何かをしなければならないことに気付いたように思われる。

人は平和で豊かに暮らしてくると、身勝手になる性があるようだ。自分はなんでも思うようにできるとか、できないことはないと思ったり、人や自然のことも顧みずに好き放題のことをしてしまう。それを、金や権力や腕力でやるのでは、たまったものではない。

小説家でもある石原都知事でが、東日本大震災は人の身勝手を戒めた天の声であるというようなことをいったことは、被害者にはきついだろうが、完全に否定することはできないだろう。

人はそれほど大きくもない地球という星にへばりつくようにして生きているし、この地球以外では生きていけない。それなのに、人は地球に感謝しないどころか、むやみに土を削ったり、海を埋め立てたり、木を切ったりして、地球を傷め続けている。これでは地球が気を悪くしても仕方がないだろう。

地球がちょっと身を揺すれば地震や津波になったり、地球がゲップやくしゃみをすれば山が噴火し、地球がため息をつけば、台風やハリケーンの大風を吹きつけるということになる。

合気道では、このような人の身勝手な心や行動が罪をつくる門戸であると、戒めている。

それでは、なぜこのような身勝手な罪をつくるのかというと、万有万物の一番の根源と、そのつながりと絆を忘れているからである、と開祖はいわれている。

開祖は、「身勝手な心、行動は罪をつくる門戸である。至大至祖の体内の玉の緒によって生きていることを忘れてはならない。」「合気は本を忘れ、本をはなれてゆこうとする人を悲しむ。本を忘れるということは、罪を構成するの始まりである。その本とは、スの大神様である。この世の一霊四魂三元八力を出された、その八力のもとに立たされた大御親たる、一番根源の大神様である」といわれているのである。

自分自身から、自分の親、その親、先祖代々、クロマニオン人、ネアンデルタール人、類人猿、哺乳類、魚類、アメーバー、細菌、・・・と137億年に遡ると、その最初のもの、宇宙の根源である一つのポチに行き着き、つながることになる。今、存在するもの万有万物は、そのポチにつながるはずである。これを開祖は、本といい、スの大神様、大御親、一番根源の大神様といわれているのである。宗教の考えであろうが、これは科学であると考える。

自分自身だけではなく、親や先祖や類人猿やそのずっと先まで一本につながっているのである。だから、137億年の間、どこか1か所が切れていたとしたら、もはや今の自分はないわけである。そう考えれば、自分がここに存在することは確率的にほぼゼロに近く、奇跡といえるはずである。

例えば、一番身近な親の父と母の夫婦のタイミングが違っていれば、自分はなかったことになる。これだけでも運がいいわけだが、その運が137億年続いた結果、今の自分があるわけである。自分が今あるのは奇跡としかいいようがないだろうし、他の人や万有万物の今あるのも奇跡ということになる。

人がこの本を忘れて、本との絆がないと、人も社会も身勝手になる。人はいろいろな罪を犯すが、一番根源的な罪は、この本を忘れることであると、開祖はいわれているのである。罪を犯さないように、一番根源の創造主に感謝し、つながり、絆を持ち続けていきたいものである。

若いうちは罪を犯すのも仕方がないだろうが、高齢者になったら罪を犯さないようにしていきたいものである。