【第236回】 己を笑う

現代は、資本主義とか自由主義といわれる社会である。資本主義とか自由主義社会というのは、一言で言えば競争社会ということになろう。競争に勝ったものが、財や名誉を得るというシステムの社会である。そこで人は、他国や他人に勝とう、負けまいとすることになる。

他に勝つため、または自分の方が優れているとするためには、大きく分けて二つの方法があると思える。一つ目は、自分が人より努力することである。努力することによって、財や名誉を得ていくわけである。お金やいい地位を得たければ、努力をすればいい。この努力が本人だけでなく、社会や国や世界のレベルアップを図るわけである。これが資本主義、自由主義社会のいいところである。軍事政権や独裁政権などでは、努力は報われないだろう。もちろん努力したからといって、自分の欲しいものが手に入る保証はない。そこには才能や運という要因が入ってくるからである。だから、努力は絶対条件ではないが、必要条件ということになる。

二つ目は、自分は努力せずに、相手を引きずり下ろして自分が上にくることである。政治の世界やビジネスの世界における中傷などは、その例であろう。日常生活においては、中傷のほかに、他人を馬鹿にするとか、笑うというのがあるだろう。これは、この競争社会の欠点であろう。

人は誰でも上昇志向をしようとしているようである。そのためいろいろと努力をし、その結果、成功したり失敗したりする。合気道の稽古でも、みんな上達しようと頑張っているはずである。下手になろうとか、上手くならないようにと思って稽古している人はいないはずだ。

それでも、稽古をしていると失敗が多い。一つの技を掛けるにも、最初から最後まで完全にできるということは、大名人でないかぎりないだろう。完璧にできたと思ったり、不完全なところに気がつかないのは、未熟なだけであろう。

人は他人の失敗にはよく気がつくようだ。そして、にやりとしたりする。「俺はそんな失敗はしないぞ」とか「俺の方がうまいぞ」とか「俺の勝ちだ」などと思い、腹の中で笑っているのだろう。しかし、自分の失敗にはなかなか気がつかないらしい。

合気道の修行は、相手や他に勝つためにやっているのではない。自分に勝っていくための自分との戦いである。これが、スポーツや社会で他と戦う相対的な戦いとは違う。合気道は、自分との戦いという絶対的な戦いである。この戦いには他が入る余地はない。

相対稽古をしてくれる"他"である相手は、自分との戦いのための「絶対的戦い」をサポートしてくれるサポーターであって、競争相手ではない。自分の掛けた技に対して、受けで反応してくれる有難い証人であり、極端に言えば自分の影の分身とも言える。

稽古は自分自身に対する戦いであるから、他人を笑っている余裕はない。ましてや他人を笑っておとしめ、自分が上と思うなどもってのほかである。他人の失敗を笑うよりも、その失敗から学ばせてもらわなければならない。自分が同じような失敗をしていないか、そのような失敗はなぜ起こるのか、その失敗をしないためにはどうすればいいのか、等などである。

自分と戦う稽古をしていると、頻繁に同じ間違いをしたり、何度もやっているのに思うようにできないとか、なぜこんなことが出来ないのか等、自分の馬鹿さ加減に呆れることが多くある。そして、しょうがないなと自分の無能さを笑ってしまうものだ。自分が自分を笑うというのは変な表現だが、自分は二人いる。身体をもった自分とそれを外から見ているもうひとりの自分がいて、この外からの自分が笑うのである。これが、己を笑うということだろう。

己を笑うことは当分続くことになるだろうが、いつの日か外の自分の己に、笑わせないどころか、参ったといわせてみたいものだ。