【第1回】 高齢者への武道としての合気道の薦め

退職した高齢者は、これまでのビジネスから離れ、時間とエネルギーに余裕ができ、これまでのやってきたことや今後の生き方などを考えることになるだろう。人は自分の人生に意義付けをしたいし、生きがいを持ちたいと思うものである。

多くの退職者や高齢者は、それまで仕事中心の生活を送っており、武道やスポーツなどの趣味を楽しむことはできなかったことだろう。その中の多くの人が、時間ができたから何か創造的、建設的なことをやりたいと思うはずである。しかし、若い時にくらべると体が衰えてきているので、スポーツや合気道などの武道をするのをためらっているのが現状であろう。

年をとっても、人は体を動かしたいものである。体を動かすと体のカスがとれ、汗と共に老廃物も体の外に出し、体のバランスが調整されるので気分が爽快になる。人間は本能的に体を動かしたくなるものである。
合気道の稽古では、師範の示してくれた技を二人で交互に掛けたり受けを取り合うので、自分一人の時より多少は多く動くし、テンポも普段より速くなるので運動になる。

合気道の目標は相手を制する技を学ぶのではない。柔術系の稽古と比べると弱々しく見えるが、合気道は力「魄」ではなく、精神「魂」の世界の修行なのである。合気道の開祖、植芝盛平翁はそれまで学んだ柔術の中で魄の世界のものを除き、魂の修行になるものを中心に技を選び、稽古方法を変えていった。柔術とは目的が違っているのである。植芝盛平翁は合気柔術から合気道、そして武産合気と、魄の武道から魂の武道へと昇華させたのである。
従って、力がない人や高齢者にもできるわけである。

合気道は愛の武道でなければいけないと言われている。愛とは相手の立場でモノを見、考え、言い、やることである。稽古では相手の為になるように相手にやってあげることである。稽古とは自分の為になり、相手の為にもなる、その接点ぎりぎりのところでやる厳しいものである。相手を投げ飛ばしたり、痛めたりするのは、自己満足の愛の欠けた稽古である。強いものが弱いものをいじめ、力のあるのもがないものを制するというのは物質文明の弊害である。
従って、本質的な稽古を求めている道場では、高齢者が入門しても上手に導いてくれるはずであるが、柔術的なことに重点を置いている道場師範もいるので、自分にあった師範を十分時間をかけて慎重に探さなければならない。

合気道は二人で組んで、体に接して稽古をするので、非接触のコミュニケーションよりも、自分自身や人間に関して多くの情報を得ることができる。自分や相手の筋肉や体の動き、気持の動きなどがよくわかり、ひいては人間の体や心も見えてくる。稽古の相手もいつも同じ人ではなく、ほとんど毎回変わるのでいろいろな人と接することになる。お互い精一杯稽古をして汗を流した後は、通常味わえない爽快さがある。この後のビールや食事は格別である。

稽古をして自分の体を使うと、自分の出来ることと出来ないことがわかるようになる。そうでないと自分を過小評価したり、過大評価することになりがちで、いろいろな問題のもとになる。

そういう訳で、退職したり、高齢になった方でも合気道や武道を始めることをお奨めする。もちろん、今、修行をしている若者や中年には、高齢者になってもぜひ合気道を続けてほしい。