【第942回】 己のためから後進のために

これまで半世紀以上合気道の稽古をしてきた。少しでも強くなろう、上手くなろうとやってきた。大先生に近づこう、先生方のようになりたいと思いながら稽古してきた。
最近は稽古の考え方とやり方が違ってきた。以前との違いを一語で表現すれば、それまでは“稽古”であったのが、今や“修業”である。合気道を修業していると実感しているということである。
修業と稽古は違う。稽古は誰でもできるが修業は覚悟と努力がいる。稽古は指導者がいるし稽古仲間もいるが、修業は基本的には一人ぼっちである。自分自身との戦いである。道場で相対での稽古をしても己自身との戦いなのである。

合気道を始めてからこれまでのことを思い返してみると、これまで三つの段階があったようである。
一つは、相手より上手く、強くなろうとする段階。相手を投げたり決めたりしては楽しんでいた稽古である。相手が対象の相対的な稽古である。
二つ目は、自分を鍛えなければならないと自覚して稽古をした段階である。受け身、膝行、木刀の素振り、山歩き、ランニングなどで肉体を鍛えた。
三つ目は、自分を肉体的だけでなく精神的、つまり体だけでなく頭も鍛えなければならないと思うようになっての稽古である。大先生の教えである『武産合気』『合気神髄』を毎日、少しずつ読み、読み終わればまた読むの繰り返をしたのである。また、合気道に関係のありそうな書物を読み始めた。

ここまでの段階ではまだ“稽古”の段階であった。まだ、修業の段階に入っているという実感はなかった。そしてあることを始め、それが身に着くとようやく修業の段階に入ったかと感じるようになったのである。今迄の“稽古”にプラスしたことによって稽古から修業の段階に移ったのである。
そのプラスしたものは毎朝の禊である。毎朝、2,3時間の禊を始めたことによって、修業をしているという気持ちになったのである。大先生が合気道は禊であると言われている事がわかるようになったのである。

何故、修業をしているという気持ちになったかというと、それまでの“稽古”と比べて、合気道をより深く、広く知り、身に着けなければならないと思うようになったからである。これまでの稽古以上の努力をしなければならないことを感じたからである。例えば、宇宙との一体化の合気道、地上天国建設のための合気道の探究などである。つまり、小乗の合気道の宇宙との一体化と大乗の万有万物に幸せがくるような地上天国建設の手伝いである。これは“稽古”の段階では考えられなかった。

修業の段階にも二つあるようだ。修業の段階に入って間がないがそれがわかった。
一つは、自分自身のための修業。これは前述の宇宙との一体化であるが、これを己のために切磋琢磨することである。
二つ目は、己のためから後進のためにも修業するということである。己自身だけが上達するのではなく、後進達も上達するようにしてやることである。しかし、私の場合は先生でないのでこれは簡単ではない。先生のように後進達に教えるわけではないので、他のやり方で導かなければならないからである。
それではどうするかというと、己の稽古の姿を見せることである。高齢でも力いっぱい稽古できる姿、そして少しずつ変わっていく姿を見せるのである。
そして合気の家族ができ、更に地上天国建設の手伝いができるようにするのである。

今では、これが己の使命であり、責任であると思っている。これらの使命観と責任感をもつわけだから、最早稽古をしているというより修業の方がいいと思っているわけである。