合気道は強いとか弱いとか、上手とか下手とかだけの武道ではない。合気道はこれまで論文に書いてきたように深く、複雑であり、また、大先生の教えの通り宇宙規模の壮大なモノであり、手先指先まで法則に則って技につかわれなくてならない等ミクロ的で繊細でもあり、他の武道のように簡単に定義はできない。
その簡単でないコトが新たに加わった。合気道の新たな定義ということになるだろう。
それを認識した動機は次の新聞記事であった。かいつまんで書くと次のようになる。
「ファーブル昆虫記を思想家の大杉栄(*)が獄中で夢中になって読んだ。他の本も数多く読んでいたがこれが一番好きだと言っている。何故ならば、『哲学者のように考え、美術家のように見、そして詩人のように感じ且つ書く』からであるという。
つまりファーブル昆虫記は哲学者として、美術家として、そして詩人として書いたという事であり、ファーブルは哲学者であり、美術家であり、そして詩人であったという事になる。
これを我々合気道家に置き換えれば次のようになるだろう。
合気道家は、武道家(一般的な)であり哲学者、美術家、芸術家、科学者、宗教家でもありたいということである。哲学者のように合気道や技を思考し、美術家や芸術家のように技や動作の美を追求し、科学者のように技を科学し、宗教家のように神や超自然を敬い、協力を仰ぐということである。
大先生は、武道家として不敗の技をつかわれただけでなく、誰もが認めた美しい技、理に適った技をつかい、そして素晴らしい書をしたため、歌をつくられた。また、大先生は神を信じ、神様との交流があったといわれる。まさに大先生は哲学者、美術家、芸術家、科学者、宗教家でもあったということである。
ということは、我々合気道家は大先生に少しでも近づくべく多面的顔をもつ合気道家でなければならないという事である。換言すれば、合気道には多面的な顔を持てる可能性があるということである。これが真の合気道家であり、真の武道家であると考える。
それ故、多面的な顔をもつ真の合気道家となるために、どのような修業をするかは明らかになってくる。それは次のような修業をすることになるだろう。
強い、上手な武術・武道の養成に加え、美的センス、科学的目と頭、哲学的思考、宗教的な目、詩人の心などの養成である。
合気道に修行の終わりがないと大先生も言われていたが、このことでもそれが分かる。
(*)大杉 栄は、日本の無政府主義者、思想家、作家、ジャーナリスト、翻訳家、社会運動家。エスペランティスト、自由恋愛主義者でもあった。