【第933回】 喜びのために合気道に精進し、生きる

人によって違うだろうが、私の場合は己の成長は合気道の精進と共にあることである。合気道が上達すれば、己がそれだけ成長したと実感し、成長したのは合気道が上達したからと思えるのである。
勿論、このように思うようになったのは年を取ってきてからである。それ以前は、強い弱い、上手い下手が合気道においての主流の思いであり、好きなことを好きにやる物質文明に生きていた事になる。
しかし、年を取ってくると己の合気道も生き方も変わってくる。肉体的な変化と精神的な変化である。己の肉体の限界と衰えを感じ、肉体にはこれ以上頼れない事が分かってくるし、また、日常生活でのモノや金への興味が無くなってくるからなのだろう。若い頃のように特別欲しいモノはないし、モノが喜びを与えてもくれなくなってきたのである。

合気道も生きることも以前からやっているし、これからも続くわけだが、考え方ややり方が変わっているのに何故、続けられるのかということになる。
年代や肉体や精神が変わろうが、それより強い動機が合気道にも生きることにもあるはずである。勿論、生きるために動機などなくても生きていく事はできるだろうがつまらない。極端な例を挙げれば、植物人間で長年生き続けてもつまらないだろう。
合気道でも生きる上でもその動機は合気道の稽古や修業からの喜びであり、生きているからの喜びであると思う。そしてその喜びは様々な事から得られ、人によっても違うだろう。私は私自身で他人ではないので人(他人)のこと等分からないのである。

傘寿を越してからの最大の喜びは、天地宇宙と人体の摩訶不思議を知っていく事である。天地宇宙と人は同じであり、呼吸をしており、呼吸を合わせることが出来る。人はまた天地の気を頂いて生きている。天の気が切れてしまえば立っている事も生存も出来なくなるのである。これは合気道でも生きている上でも同じである。
日常生活で天地宇宙の気を感じ、己の気と結び突くのは気持ちのいいものである。
合気道でも天地宇宙を創り営んでいる気、布斗麻邇御霊で技をつかうと気の技がつかえるようになり、幽界の次元にあることを自覚する喜びを得る事ができるのである。
ここから更なる喜びを得られることを予感する。魂との出会いと魂の働きである。神が働くようになるということである。これは合気道の最終目標テーマであるから、これほどの喜びはないだろう。これが最後の目標、挑戦になると思う。だから合気道を続けたいし、もう少し生きたいのである。