【第925回】 理想の合気道

合気道の技づかいは非常に個性的である。技をつかう人それぞれ違うからである。勿論、合気道の基本の形、例えば正面打ちや横面打ち一教、四方投げ等にそれほど違いはないようだが、他の動きや形、つまり手先足先の動きや形が違うという事である。従って、上手い下手、強い弱い、美しい美しくない、納得できる出来ないという違いが現われることになる。

合気道は技の錬磨によって精進していくから、技づかいが重要であるし、どのような技をつかえるのかが大事になる。そのためには、例えば、真善美の技づかいをし、そして己も真善美の己にならなければと教わっている。しかし、これは中々難しい。初心者にはこれがどういう事なのか、どうすれば真善美を備えた技がつかえるようになるのかなど分かり難いからである。
この中で一番分かりやすいのは美であるが、何が美なのか、どうすれば美(の技)になるかも難しいようだ。

美は共通の価値観であり、誰が見ても美と感じられるはずであると考える。自分だけが美と思っても他人もそう見なければ真の美ではないだろう。従って、美とはここでは真の美ということになる。
美は各々の評価の美であり、真の美は絶対的な美ということになる。合気道的に云えば、宇宙が創造する、宇宙の法則に則った美であり、神業の美ということになる。神業の美の大先生の技の美しさを万人が認めていたのは、大先生の技は真の美であったということである。我々凡人は真の美の技等つかえないわけだが、少しでもそれに近づけるように修業をしなければならないわけである。
因みに、己の技が美になってくればそれに合わせて真も善もついてくるはずである。美によって真善美が身に着くわけである。美は己の目で確かめる事ができるので、やろうとすれば誰にでも可能である。真善は目に見えないのでそれは難しいのである。

美は合気道だけに通用してもあまり意味がない。合気道の外の世界でも真の美であると納得して貰えるようにならなければならないということである。そんなことが必要なのか、出来るのかという疑問を持つだろうが、大先生の技、大先生の合気道を思い出して欲しい。大先生の技と合気道の思想は、武道界、軍隊、政界、学会、花柳界などなどすべての世界の人たちを魅了させ、感動させたのである。恐らく大先生は宇宙に恥じない美を探究されていたはずである。要は真の美はあるり、神だけでなく人も身につける事ができるということである。

朝日新聞の「天声人語」(2023.12.23)でファーブル昆虫記を読んだ思想家、大杉栄の評価の話を読んだ。大杉栄は獄中で他の本を後回しにしてファーブル昆虫記を読むが、一番好きだと評価したところは、「哲学者のやうに考え、美術者のやうに見、そして詩人のやうに感じ且つ書く」であるという。
わざわざこれを書いたのは、合気道と合気道の技はまさしくこれと同じではないかという事である。合気道、合気道の技も哲学者のように考え、美術者の真の目で技を見、そして詩人のように体感し、技を現わしていくということである。
つまり、これが真の美の技であり、理想の合気道ということである。この内に欠けたものがあれば真の技でも真の合気道でも理想の合気道ではないということだと考える。