【第923回】 老齢もいい

80歳を越しているが合気道の道場稽古は続いている。大分身体は衰えていると思うが相変わらず、投げたり押さえたり、また受けを取っている。身体が衰えているのを実感するのは受けである。最早、前受身や飛び受身はできない。出来るかもしれないがやらない。これは身体の衰えである。しかし受身は取っている。これは合気道の稽古の決まりだからである。左右と裏表の四回技を掛けたら、相手の受けを四回取るのである。先輩だからといって多く投げたり、少なく受けを取ったり受けを取らないのは合気道の稽古の決まりに反するのである。

年を取り、身体が衰えて飛び受身はともかく、前受身が取れなければどうするかという事になる。後ろ受身、つまりお尻から転がる受け身をつかうのである。本来、前受身でやるのを後ろ受身でとるのである。一寸複雑で前受身の得意な初心者には難しい。年と稽古を重ねた結果に出来る受けだと思うからである。思うというのはそんな受け身を周りで見たことがないからである。

年を取って身体が衰え、前受身もできなくなった時はショックだった。これで合気道も続けられなくなるし、普段の生活もままならなくなるだろうと思った。
しかし今ではこの身体の衰え、前受身が出来ない状態が正常であると悟り、この状態の中でやっていけばいいと思うように悟った。
私の尊敬する解剖学者の養老孟司先生はこれを「体調はどうも本調子ではない。そんな気がするのだが、それがあまりに長く続くから、やっと低め安定なのだと気づく。この低いままの状態がつまり正常なのである。それが老齢というものであろう。」と言われている。

学生時代、サラリーマン時代と合気道の稽古をしてきた。出来るだけ稽古の時間を取り、稽古の密度を上げようと励んだつもりである。しかし、多くの制限があり、完全燃焼というわけにはいかなかった。だが、今は勉強や仕事などの制約がなくなり、好きな事、やりたい事を好きなように出来るようになり、好きにやっている。老齢になったお陰である。
養老孟司先生は虫が面白いと研究されている。わからなかった事がわかってくるのが面白い、「わかる」のがただうれしいという。
私の場合は合気道であり、わからなかったことがわかり、出来なかった事ができるのがただうれしい。養老先生の気持ちがよくわかる。私も老齢になったということであろう。

後進と技の稽古をしていると、時として前に教えたことと違うことをいう事になる場合がある。新たな事実、新たな法則を見つけた場合、それまでの技づかいを変えなければならないということである。いうなれば間違っていたということになる。専門家や偉い先生方には自説の変更、間違いを認めるのは難しいだろうが、こちらは素人であるし、また、老齢である。間違いなど恥ずかしくはない。これが正常というものだろう。
老齢もいいものである。

参考文献  『ヒトの幸福とはなにか』養老孟司 筑摩書房