【第922回】 教えるという事

合気道を60年ほど続けているがようやく真の合気道の修業に入いれてきた。しかし歳も80才を越え先が見えて来たので、あとどのくらい修業できるのかが問題であるが、それはあちら様の都合だからこちらが心配しても仕方がない。やるだけやるしかない。
何をやるかというと、主に二つある。一つは、真の合気道を探究し、少しでも深める修業を続ける事である。もう一つは、後進を導くことである。導くことは先ずは伝えることであると思う。己が大先生や先生、先輩から受け継いだものを伝えていく事である。大事な教えが一度消えてしまえば恐らく二度と現われないから、何とか伝承しなければならないのである。伝え方には直接的なやり方と間接的なやり方があるが、どれだけ伝えられるかは伝える本人の技量に関係すると思うので、己自身を厳しく鍛えていかなければならない事になる。

60年稽古を続けてきて分かってきた事がある。自分も過ってはそうだったわけだが、ほとんどの稽古人は合気道の稽古をしている。合気道の道場に通って合気道を稽古しているのだから不思議ではないだろう。私も40,50年間、合気道を稽古してきて、何も疑問を持たずにやってきたが、ある事がきっかけで合気道を脱却することになり、次の次元の大先生が云われる真の合気道の次元に入る事ができたのである。
これまで書いてきたように、合気道の次元は顕界で魄の次元であり、体力や腕力に頼る肉体的力主導の稽古である。魄の稽古には限界がある。
次の次元に入るためには、この魄の限界を認識・実感できなければならないと思う。私自身も魄の技づかいの限界を体験して、どうすればいいのか悩み、考えてようやく次の次元の幽界の稽古に入れたわけである。目に見えない世界であり、目に見えない心や精神主導の次元である。技は気や魂の働きでつかうのである。

合気道の稽古は道場で相対での稽古をして技を磨いていく。先述のように、ほとんどの稽古人は魄の技づかいをする。顕界の稽古である。
私も道場での相対稽古をする。技を掛け、受け身を取り、相手が下手であっても公平に取り受けをやる。ということは、顕界の稽古と幽界の稽古をしていることになる。幽界からは顕界の技がよく見える。恐らく顕界の技をつかっている相手はこちらの幽界の技に気がつかないだろうし、見えないはずである。顕界の技をつかっている相手がこちらの幽界の技を認識して、真似てくれればそれが伝え、教えになるわけだが、見えないのでそれは難しい。従って、動作を言葉で伝えようとしてしまうことになる。しかし、この教え方も駄目であることが分かってきた。幽界の次元の事を顕界にある者には言っても分からないからである。勿論、言って判るモノもある。それは本来、顕界でやるべき事である。後進に伝える事、教える事には、伝えられる事、伝えるべきこととそうでない事がある。

伝えられる事、伝えるべき事、すなわち教えられる事、教えるべき事とは何かというと、今の顕界の稽古から次の幽界の次元の稽古に入れるために必要な事である。それには二つある。
一つは、幽界の稽古に入るために、顕界でやるべき事がある。魄を鍛えることであり、魄が働いてもらうようにする事である。身体を手先足先から頭のてっぺんまで鍛えるのである。筋肉や関節を柔軟強靭にするのである。手首などの関節、腹などが十字に返るようにするのである。カス取りである。大先生は、合気道は(真の合気道のための)カス取り(禊)であると言われている。また受け身を沢山取って肺や心臓などの内臓も柔軟強靱にし、大きな息づかいや強力な息づかいが出来るようにする等である。
二つ目は、顕界から幽界に入るために必要な事である。顕界は肉体の力(魄の力)で技をつかっているわけだが、これを脱して幽界の次元に入るわけだが容易ではない。準備が必要だと考える。
顕界から幽界に入るためには、経験上、そこに入るためにやるべき事をやらなければならないのである。
それは息づかいである。肉体主動で技を掛けていたのを息で肉体と技をつかうのである。息はイクムスビである。イーと息を吐き、クーで息を引き、ムーで息を吐き、スーと離れ、イー・・と続くのである。
息づかい主動で技と体をつかっていくとその内に息が気に代わってくるのである。息が産まれてくると幽界に入りやすくなるのである。

この二つ目は幽界に入るための必須事項と思うので、後進にこのための事は伝え、教えていきたいと考えている。
それ以外の事や顕界に満足し、顕界の稽古に関心がない稽古人には直接伝える事も教える事もしない。