【第921回】 年を取ることも必要

80歳を越えてきた。合気道の稽古をしても以前とは大きく違ってきた。満足に受け身は取れなくなるし、立ち上がるのも容易ではなくなる。また持久力もなくなっている。過っては、稽古相手に息を上がらせて喜んでいたが、今では己の息が上がらないようにするのが精いっぱいである。
しかし体が動かなくなってきたお蔭でそれまでにない動きができるようになった。体が動かなくなったことで動くようになったわけである。合気道のパラドックスである。逆に言うと、若い内の体が動く間は、動かない、動いていないという事である。若い内のように体が自由自在に動くから、合気の理の動きになり難いという事である。

体が動くとは、ここでは合気の動きということであり、理に適った、法則に則った動きと云う事である。年を取って若い時のように動けなくなったので、どうすれば動けるようになるのか考えるわけである。一般の高齢者でも誰でも考えている。そして散歩をしたり、ゲートボールをしたりして動けるように努めるわけである。
合気道を稽古していれば、合気道の教え、思想、理合いで動かすようにすればいい。合気道の技がつかえるということは体が動く事であるから、技づかいの動きで体を動かし、体をつかえばいいわけである。合気道の稽古で技がつかえれば、身体が動いていることになるし、道場の外での日常でも体は動く事になる。道場は日常の一つのクッションである。つまり、道場稽古で体が動く間は日常での体の動きの問題はないということである。ということは、道場稽古が出来なくなれば、日常生活に問題が移ってくることになり危険信号である。

合気道の稽古での身体づかいである。若い頃はそのような事に関心がなかった。前述のように、年を取ってはじめて体の動き、体のつかい方を研究するようになった。動かない体を何とかしようとしたわけである。そして体は表と裏があり、表をつかうとか、陰陽、十字と天地の息に合わせてつかわなければならないと気づいたのである。
このように体づかいや息づかいなどがわかってくると、それにつれていろいろな事が分かってきたのである。これまでどうしても出来なかったことが出来るようにならないまでも、何故出来ないのかがわかってくるのである。それはこれまで一つ一つ単体で挑戦してきたことが、年を取るに従いそれらの単体がまとまってきた結果であることもわかってきたのである。これは高齢者の特権であり、元気はつらつの若者には難しいと思うのである。

その典型的なものが正面打ち一教である。この技は合気道の技の内の基本中の基本の技、言うなれば“極意技”であると思っていたので何とか会得したいと思っていたのである。しかし正面打ち一教は非常に難しい。故に、これまで書いてきたようにいろいろ試行錯誤してきたわけである。

そして年を重ねたお陰で、何故、正面打ち一教が難しいのかの肝心なことがわかってきたのである。
それは正面打ち一教の技には沢山の重要な法則があるからである。そしてその一つ一つの重要な法則の一つでも欠けたり、間違えば正面打ち一教として成り立たないということである。これらの法則はこれまで研究してきた通りであるから省略すが、最近、確認、再確認した法則を記す。
体は足→足→手とつかうが、手は踵が着地してから着地と同時に出す
足→足の足は撞木足で進める。この重要性を再確認
体は軸→軸→・・・で動く
手掌は母指球を体に掌底と小指球を用に気を張ってつかう
手刀(掌底と小指球の間)で相手と接し、気を満たしてつかう
手は顔の前でつかうが、顎を意識するといい=顎で手をつかう感じ、等

正面打ち一教ではこのような事、つまり基本の技・動きを欠かさずやらなければならないのである。所謂、正面打ち一教を構成する元素である。これで正面打ち一教ができればいいが、恐らくできないだろう。出来なければ、まだまだ正面打ち一教には隠れた元素があるということになるわけである。
だから正面打ち一教は難しいのである。これが年を取った今ようやく分かったわけである。