【第920回】 神業で感動を与える

年を取ってきて一番変わったことは感動することが増えてきた事である。また、即、つまり無拍子で感動するようになった事である。
若い頃は、モノや人を自分と比べながら疑いの目でいたようだし、自然を軽視していたと思う。これは己が物資主義、競争社会にあったからだと、合気道は教えてくれる。
今は、子供、特に幼児の仕草や動作、野外の草花、月や星、夕焼け、家から遠望する富士山などを見ればすぐに感動する。感動するとは、美しい、素晴らしいと思う事と、生きている事のすばらしさと幸せを実感することである。

毎朝、CDを聞きながら新聞を読んだり、朝食をとっている。聞くCDは季節や気分によって変わる。例えば、夏はハワイアンやイタリアのカンツォーネ、涼しくなるとチターやギター、秋の今はシャンソン等となる。この他、気分によってモーツアルトやチャイコフスキー等のクラシックも聞く。聴くのではなく聞き流しである。
音楽を聞いてもますます感動するようになったが、また、これまで書いてきたように絵画、書、版画、小説や随筆などの絵や文を見ても感動している。頭だけでなく身体もぞくぞくとする。若い頃にはなかったことである。

何故、感動するようになったのかを考えてみると、年を取ってきたからだけではないようだ。何故ならば、年を取れば感動するならば、すべての高齢者は感動するはずだがそうでもないようだからである。
それは合気道の教えと修業からくると考えている。合気道は感動する己の心体をつくること、感動を人や社会に与えるという目標への修行である。感動はひびき(波動)であるから、鋭敏・繊細な心体となり、感動しやすくなるというわけである。

幼児でも音楽でも、絵画、書、文でも感動するものもあるがしないものもある。そこにはどのような違いがあるのか、どこに違いがあるのだろうか。
これを合気道の教えで考えてみる。
感動を与えてくれるものは、音楽にしても、書や文にしても、一言で云えば“神の仕事”である。人間を通してはいるが、神の働きの仕事、これを神業という。人間がどんなに力んで頑張っても限界があり、人に感動は与えない。

神業が出るためには、上手く書こうとか演奏しようとか、有名になろうとか、金を稼ごうなどとの気持ちをなくさなければならない。無意識、無作為で仕事をするのである。つまり我を捨てて神に仕事をお任せするということである。
この神が仕事をした絵画、音楽(曲、歌、演奏)が人に感動を与えるし、人はそれに感動するのである。神業で感動を与えるのである。
世界的に評価されている音楽、絵画、書、文書などは神の仕事であり、神業ということになるわけである。つまり、世界的に評価されるためには、感動を与える神業の仕事をしなければならないということである。

合気道もその神業が出るよう、働いてくれるように修業しているのである。