【第919回】 他人を喜ばす

高齢になったせいか、何が嬉しいかといって自分が変わるほど嬉しい事はない。今まで出来なかった事が出来るようになったり、分からなかった事等が分かるようになったりして喜んでいる。これまでの自分に喜びが積み重なって変わってきているのである。換言すると、高齢になった自分の喜びは自分自身が変わることしかないと思う。豪邸や高級車や高価なものや豪華な食事などではこの喜びは得られない。他によっては自分が変わらないし、喜びもないのである。

合気道の稽古をし、技を錬磨しているとその喜びを頻繁に得ることになるので、合気道は有難い。お陰で毎日楽しく過ごさせてもらっているし、80を過ぎたがもう少し頑張ってみようと思っている。変わることに期待しているからである。

最近、これまで以上に嬉しくなったことがある。自分が発見した技の法則を後進の他人に教えたところ、後進がその法則を技でつかえたのである。勿論、本人は喜んだ。本人の喜びは私がその法則を会得した時と同じであるはずだ。しかし、今度の私の喜びはこれまでの喜びとは違う。今度の私の喜びは、他人も喜んでくれたことである。自分が教えたことを他人が出来たということの他に、この自分が出来た技が他人も出来たという事、そして喜んでくれたことである。

やることをやれば誰にでもできるわけだから、合気道は科学なのである。
合気道の技は科学であるとなれば、誰でも出来るようになるわけだから普及することになる。謂い遅れたが、この技は足→足→手の法則であった。これまで多くの法則を見つけたし、まだ見つけていない法則はまだまだあるはずである。合気道の修業の目標は地上楽園建設であるが、一人でも多くの合気道家が合気道の法則を身に着けていく事が地上楽園に近づくことであろう。
地上楽園建設は一人では出来ない。他人である同士が必要なのである。天地宇宙は楽園にしようと創造され、営んでいると教えにある。教えた他人が法則を身に着けた喜びは、それにお役に立っているということで自分の喜びになり、己が技を見つけた己個人の喜びより大きかったのである。因みにどれほどの喜びに違いがあったかというと、その己の発見の喜びはこれまでの発見と同じで一過性のものであったが、この他人の後進からの喜びは非常な昂奮を伴い、その夜は気が高ぶって寝られないという状況だったのである。
これからは自分のために喜ぶだけではなく、他人にも喜んでもらうよう、そして天地宇宙にも喜んでもらえるように修業していきたいと思っているところである。