【第915回】 目に見えないモノが見えてくる

合気道の稽古も目に見える次元でやっている間は真の合気道ではない。これを顕界の稽古と云う。勿論、顕界の稽古も非常に大事であるが、顕界の稽古は真の合気道のための準備段階である事を知らなければならない。顕界での技づかいは主に肉体主動であるので肉体的な限界がある。技は気で肉体をつかって掛けなければならないのだが、気は顕界の稽古では生み出すのもつかうのも難く、幽界の稽古で生む事、つかう事ができるのである。目には見えない次元の幽界に入らなければならないのである。

気は目に見えないが、見えるようにしなければならない。そうしなければ気を生むことも、つかうことも出来ないからである。
それでは目で見えないモノを見るとはどういうことなのかというと、これまでの稽古で分かった事は、実感することである。体と心で感じる事、実感、直感であると考える。これは気のひびきであり波動であると思う。

年と共に、技の稽古を幽界でやり、目には見えないモノを見るようにやっているが、技づかいだけでなく、書籍を読む場合も見えないモノが見えるようになってきたのである。『武産合気』『合気神髄』は難解であるが、その難解の理由は、この目に見えないモノが見えなかったので、理解出来なかったということである。その例(「」の中)を幾つか挙げてみる。

<神業と神技について>
「すなわち須佐之男命であります。それが人数そのものの大きな力になって動いていく草薙の剣の御神剣の発動であります。橘の小戸の神業、禊の。これが合気道です。」(合気神髄P155)とあるように、“わざ“には「技」と『業』があり、「技」は人間のわざで、「業」は神様のわざということがわかる。因みに、大先生は”合気道は禊ぎである“とよく言われておられたのはこの事だったのだと思う。

<生産び>
「日本には日本の教えがあります。太古の昔から。それを稽古するのが合気道であります。昔の行者などは生産びといいました。イと吐いて、クと吸って、ムと吐いて、スと吸う。それで全部、自分の仕事をするのです。」(合気神髄P101)とある。
ここで見えない大事な教えは、1.「昔の行者などは」の行者とは、武道家、武術家も含むということであり、合気道家もこのイクススビの息づかいで仕事をしなければならない(技をつかう)という事である。2.「昔の行者」の昔はイクムスビの息づかいであったが、今は違うということである。因みに、今はイクムスビに代えて布斗麻邇御霊の息づかいを指していると思う。

<殲滅出来なければならない>
「真の武道は相手を殲滅するだけではなく、その相対するところの精神を、相手自ら喜んで無くさしめるようにしなければならぬ和合のためにするのが真の武道、すなわち合気道である。」(合気神髄 P.173)とある。
合気道は愛の武道、和合の武道で相手と仲良くやると思っているだろうが、真の合気道は相手を殲滅するだけの威力を持っていなければならないということである。勿論、それをやってしまえば合気道の精神に反するし、自分の負けでもあるが、その力は養成しておかなければならない。持ってはいるが、つかわないという合気道パラドックスである。また、殲滅する力を秘めているからこそ「相手と和合できるし、相対するところの精神を、相手自ら喜んで無くさしめる」事ができるのである。

<魄が下になり、魂が上になる>
「つまり魄の世界を魂の世界にふりかえるのである。これが合気道のつとめである。魄が下になり、魂が上、表になる。それで合気道がこの世に立派な花を咲かせ、魂の実を結ぶのである。」(合気神髄P.13)
これを目で見ると、魄は悪、不必要、無価値で魂こそが大事であると見るだろう。しかし、目に見えないが、ここでは魄が大事であり、魂の下になる魄がしっかりしていなければ魂がのらないし、実が結ばないということも教えているのである。

年を取ってくると、このように目に見えないところにも大事な教えがあることが見えてくる。技の錬磨においても、また書籍や文章を読むにも目に見えないところが見るようになってくるのである。年を取る事も捨てたものではない。