【第888回】 人間から人へ

先日82歳になった。学校や会社に行くこともなく、好きなようにやっている。過ってのように朝早く起きて、学校や会社に行く必要もないから、一日中寝ている事も出来るし、何もやらずにぶらぶらすることもできる。勿論、そうはしていない。それでは満足できないことが分かっているからである。
人が満足できるのはやるべき事をやることである。ただし、やるべき事は他人からの押し付けではなく、己が決めた事である。つまり、他者による束縛ではなく、自前の束縛である。故に、やるべき事は己のやりたい事、己がやるべきと思う事である。いやいややる学校の勉強や会社の仕事とは違う。

高齢者になって充実した生活を過ごすモットーは“自由と束縛”ということだと思う。自由の自由は意味がないだろう。これはハチャメチャ、メチャクチャということである。何か束縛するものがあるから自由を享受できるはずである。勿論、束縛だけでは更に悲劇である。
実際、若い頃と比べると“自由”であると実感している。やりたい事、行きたい所、見たい物、食べたい物等々好きに出来る。誰も邪魔するものがない。
以前だったら、親に反対されたり、学校や会社の決まり、先生や社長・上司に反対されてやりたいことが自由に出来なかった。

ここで何故“自由”になったのかを考えてみることにする。これまでのように学校や仕事に行く必要がなくなり時間が出来たし、労力も余ったからだと考えていたが、ただそれだけではないようだ。
それは“人”として生きようとした事が“自由”をもたらしたということだると思うのである。これまでは“人間”として生きてきたということである。
“人間”とは、人の間にある人で、中国語では世間というらしい。つまり、人間という人は、家族、生まれ故郷、学校、仕事社会、日本社会などの世間の中での人ということで、世間の中、世間と共に生きている人ということになる。世間を無視できず、気づかい、村八分にならないように注意しながら生きていくわけである。外国人から日本人を見ると、日本人は世間で生きており、人として生きていなと見ているようである。

“人”として生きるとは、世間とのしがらみを外して、自分流で生きるということである。特に、“人”として生きていると実感するのは合気道である。合気道は世間で生きる必要はないし、世間と付き合う必要はないからである。
勿論、合気道だけで“人”として生きていけるわけがない。やはり多少は“人間”としても生きていかなければならない。本当に生きようと思うなら一方だけでは生きられない。兼ね合いが大事だろう。
しかし、生きるとは“人”として生きることだと考える。少しでも“人”の割合を増やし、“人”になる努力をしていきたいと考えている。


参考文献  『養老孟司の人生論』(養老孟司著 PHP)