【第879回】 高齢者はそれまでの集大成

年を取ってくると、若い頃の悪い癖がプラスに働くようになる。若い頃は嫌で、何とかしようとしたのだが、どうにも出来なかった癖があって、否で嫌でしょうがなかったが、高齢になった今になるとその癖がお蔭様になるのである。
まず、飽きっぽかった癖である。例えば、楽器ができたらいいと思い、ウクレレを買い、楽譜も買って稽古するもすぐにやめた。人が楽器で演奏しているのを見ると、また、何か楽器をやろうとギターを購入したがこれも続かずいつの間にかギターは埃を被る状態になった。その内にまた挑戦することになったのは尺八である。これも音がまともに出せないまま中断してしまっている。今でも楽器ができればいいと思っているが恐らく無理だろう。

運動もいろいろやった。子供の頃は近所の子供たちと子供として遊ぶべき遊びはすべてやったはずである。鬼ごっこ、かくれんぼ、ゴム跳び、竹馬、コマ回し、パチンコ、そり遊び、魚とり、吊り等などである。どれも一時は一生懸命やるが、段々飽きてくるものである。お陰でこれらの専門家にならずに済んでいる。
学生時代は、中学校では軟式テニス、高校では走高跳をやった。地区や県での大会では優勝したが、大学ではやらなかった。お陰で合気道に出会えたのである。
しかし、合気道は60年ほど続いているし、飽きることがないようである。
若い頃のように飽きずに続いているのが不思議だろうが、私自身は不思議ではなく当然に思っている。なるようになったということである。大先生が云われる「神はからい」だろうと思っているのである。この合気道のために、いろいろな遊びや運動をこれまでしてきて、その集大成として合気道になったということだと思っている。合気道のためにやってきた、やらされてきたと思っている。思うのは自由である。

若い頃の癖に、一か所に居着かない、居つきたくないがあった。そして小さな家、狭い田舎から都会の東京に出、更に外国に出た。が、外国も十分な大きさではない事がわかったのである。後で分かるのだが、小さいところから大きいところを探していたわけである。しかし、合気道でより広い世界をみつけることができたのである。それは宇宙である。小さいところ、狭いところから大きなところ、広いところへの旅の集大成が合気道であり、宇宙だったのである。ただ、この宇宙と云う集大成に気がついたのはつい最近のことである。

更なる若い頃の悪い癖に、モノを書く、人前で話す、本を読むのが嫌いだというのがあった。これは出来るだけやらないようにしてきたが、仕事をするようになってどうしても避けられなくなってしまった。記者会見で司会をしたり、リリースを書かなければなったのである。これも「神はからい」であると思った。これまで避けていたモノに挑戦しろということである。有難いことに女房は物書きが仕事なので、文章や言葉遣いをチェックしてくれた。お陰で文章をつくること、書く事には慣れてきた。慣れてくると字に親しみが持てるようになり、本を読むことにもなった。その集大成が今書いている論文ということになる。

まだいろいろと癖があった。子供のころから大人の云う事や先生の言う事をを信用できなかった。だから彼らの言う事は聞くが、半分信用し、半分は疑うようになっていた。小学校までは大人も先生も信用していたようだが、中学校から信用しなくなった。しかし、合気道と出会ったことで、大先生をはじめ、先生や先輩など信用できる人に会えたわけである。武道は頭や口先だけでなく、体でその言や考えを表さなければならないので、嘘はつけないし、間違ったことも言えないのだろう。また、これはと思う先生の言う事を疑ったら、進歩はないのが武道であると思う。信用できない大人たちを見てきたお蔭で、信用できるかどうかが見極めらるようになったし、また、自分がそうならないように合気道で集大成しているわけである。

最後に、私がこれまで生きてきた事の証の集大成である。勿論、合気道である。技の探究と後進への伝承である。そのために、更なる技の錬磨を続け、そして論文を書き続けることであり、そして地上楽園建設の生成化育のお手伝いになることである。