【第878回】 長年続けられてきたことには意味がある

昨日、お宮参りをした。よく行く温泉に入る前にお参りをする。習慣のようになっているのでお参りをしたが、何故、参りをするのかを考えてみた。
自分のお参りを分析して見ると、健康で過ごせたり、金持ちになるとか、無病息災であるとか等は神様にお願いしていない。それでは何故、何のために祈るのかということになる。
お参りや祈りは昔から、多くの人々によって行われてきた。途絶えずに続いてきたわけだから、何か意味があるはずである。

日常で長年続いてきたことにはお参りや祈りの他に、挨拶がある。また心を落ち着かせるために瞑想をしたり、深呼吸をするなどもある。
これらは無意識のうちに人は長年やってきているわけだが、意味があるはずである。
それで出した解答は、顕界から幽界へのより深い次元に入るためではないかという事である。目で見えるモノの次元から、目には見えない次元に入り、見えずにあった必要なモノ等が見えるようになることである。そしてここから喜び、感激、感謝、そして愛が生まれるのである。
この次元は人間だけではなく、生物(動物、植物)と共通する次元であるから、他人とも動物、植物とも結び合い、分かりあえる次元である。故に、動物や植物に声をかけたり、挨拶したりするようになるのである。

人は顕界では表面的な姿形を重視する。故に、人は得てして身体障碍者を軽視することになる。幽界の目に見えない次元に入れば、外見は関係なくなり、内面の心、精神を重視することになる。故に、健常者も障碍者も平等になる。幽界にある仏さまは健常者も障碍者も分け隔てなく扱っていることを見ればわかる。人が仏さまをお参りするのは、幽界の次元に入り、そして仏さまのその心にあやかりたいということなのだろう。
顕界から幽界に入るために、昔は印を結んだり、役行者のように荒行をした。それをもっと容易にしたのが合気道であると、合気道の開祖の大先生は言われている。

長年続けられてきたことに挨拶があるが、挨拶の必要性は誰も疑う余地はない。人間社会で挨拶のない社会など考えられない。
しかし、よく考えると、挨拶も顕界から幽界へ入るための方法であることが分かる。対面して何も言葉を発せず、挨拶せずに黙っていれば、相手はその人の外見でその人をどんな人間か、何をしようとしているのか、危険人物なのか無害な人か判断しなければならない。これが顕界である。
挨拶を交わせば、目には見えないところが見えてくる。心の優しい人なのか、戦闘的か友好的か等である。その目には見えないものを見るべく挨拶が必要なので、挨拶が続いているということだろう。

また、挨拶で相手に戦闘的心を興させない働きもある。その典型的な例を紹介する。
過って本部道場で教えておられた有川定輝先生に稽古以外でもご一緒させて頂き、いろいろ教えて頂いたが、先生が道場であれ外であれ、年配者だけでなく若者からの挨拶も必ず返されていた。年や力量などによって頭の下げ方や気持ちは違うが、誰の挨拶に対しても必ず挨拶を返されていたのである。そこで或る時先生に何故誰に対しても挨拶を返されるのですかとお聞きすると、先生は「敵をつくらないためだ」と簡潔に云われたのである。長年続けられている挨拶にはこのような意味もあるということである。
長年続けられてきたことには意味があるということである。