【第876回】 顕幽神界に生きる

大先生は顕界、幽界、神界を行き来されていたと言われたし、合気道はこの三界を胎蔵し、調和しなければならないとい云われている。つまり、合気道は、顕界、幽界、神界の三界の稽古をしなければならないということである。
顕界は顕れた世界、幽界は仏の世界、仏教です。神界は神の世界である。この三界を禊の合気道で建て替え、立て直しをしなさいと、大先生は「顕界は、この世の世界、また幽界は仏教の世界、神界は魂の世界。この三つの世界を建てかえ、立て直しをしなければいけない。」(合気神髄p.138)と教えておられるのである。

合気道の修業でこの三界の稽古をしなければならないが、道場稽古だけでは不十分であろう。言いたい事は、日常生活においても三界の稽古をすべきだということである。つまり、三界の生き方をするということである。
それでは三界の生き方をどうするかということになるが、合気道の稽古・修業法に則ってやればいいと考えている。
まず、顕界の生き方であるが、顕界の稽古である。魄の稽古、肉体的な稽古ということになる。モノや力に頼り、相手と比較する相対的な稽古である。
顕界の生き方では、この顕界の稽古と同じような生き方をしているから、所謂、顕れた世界の生き方ということになる。みんながやっている事である。

次は、幽界の生き方である。幽界は仏の世界、仏教であるという。幽界の稽古は、目に見えない次元の稽古で、肉体主動の稽古から、息や気や心主導の稽古になるから、幽界の生き方は、目に見えるモノではなく、目に見えないモノの心やエネルギー(気)に価値を置き、重視する生き方であろう。
幽界は仏の世界、仏教であるということで、幽界の稽古では、仏さまとも稽古をする。仏さまとは亡くなった人間である。亡くなられた大先生や有川先生に教わっているのであるが、幽界の生き方でも、亡くなった合気道の先生方や両親や親族、知人、恩人たちと共に生きているのである。
顕界では、お金や車・邸宅・土地、学歴、地位や知名度等を得るために頑張っていたわけだが、幽界に入るとそのような目に見えるモノの価値はなくなってくる。代わりに眼には見えない「心」が大事になってくる。人の心、動植物に心、そしてモノの心である。幽界で生活していて最も感動するのは心である。どんなに高価なモノを貰うより、子供たちの振る舞や言葉、可憐な草花、樹齢1000年の老木などに感じる心の方が感動が大きい。人は心の感動するために、展覧会で絵を見たり、音楽会に行き、歌舞伎やお能を観に行くのであろう。
また、幽界に生きていくと、生物ではなく無生物であるモノにも心はあると感じるようになってくる。部屋でもトイレでも、食器でも、本でも洋服・和服にも心があるということである。だから、かれらと仲良くなり、挨拶もするし、よろしくとお願いしたり、有難うと感謝もする。周りはみんな仲間である。賑やかだし、孤独など感じない。

最後は神界の生き方であるが、神界の稽古がまだ十分にできていないので、この生き方も途上にあるということである。しかし、多少は神界の生き方もしている。合気道の稽古で神界に入ったように、生活でも神の世界に入ろうとしている。例えば、毎朝、お日様(天照大御神)をお参りする。高皇産霊神、神皇産霊神共に歩く。伊邪那岐、伊邪那美で手をつかう等である。
また、神様たちに詔を唱える。つまり、神様に祈り、神界に入るわけである。

これからも合気道の修業でこの顕界、幽界、神界の三界の稽古を続けていくのに加え、日常生活でも顕界、幽界、神界を楽しみたいと思っている。