【第858回】 年取れば裸で

仕事も止め、高齢になって日々を送っていると、若い頃とは違ったというより正反対の生き方をしているようで面白い。
若い頃はどこの学校に行くか、行ったかやどこの会社で働き、どんな役職をしていたかが大事であった。自分もそうだったし、他人を見る目もそうだった。東大を出たり、大会社や官庁等に勤めていると一目置くわけである。
特に、子供の頃はどうして自分の家は友達の家のように広くないのか、お金がないのか等と羨ましく思っていたものである。

今は高齢者という年寄りになったが、付き合う相手も自分自身も、どの大学を出たのか、なんの会社に勤めたのか、役職は何だったのか等関係なくなった。また、興味もないので聞く事もない。勿論、話をしていてその話の関係で聞くとか、その話や考えがどのような根拠や過程で出て来るのか等の興味で聞く事はある。従って、私の周りの人達は、どの大学を出て、どこでどんな仕事をしてきたのかなど知らずに付き合っている。ましてや私の付き合う人は、ほとんど合気道の稽古仲間であるから、そういう事に興味も関係もないわけである。

若い頃は、学校を基に活動したり、会社中心に仕事をし、生活してきたが、今思えば、学校や会社・役職というぬいぐるみで生きていたということである。当時は、学校や会社などのぬいぐるみ等が重要であったわけである。仕事で頻繁につかっていた名刺はそのぬいぐるみの典型だろう。

それでは高齢になった今は何が大事なのかである。高齢者になって平穏に、そして社会と上手くやっていくために重要なことであると共に、高齢者が大事と思っていることである。
それは“健康”と“人間性”であると考える。健康でなければ平穏に生きていけないし、社会に迷惑や負担を掛けるわけだから、健康は重要であるし、これは高齢者の基であると思う。
若い頃は、健康などあまり気にしないものである。黙っていても若者は健康だからである。年を取ってくると、どこか悪かったり、一寸した事で怪我や病気になるわけだから、そうならないように健康でいるよう、維持するようつとめなければならないことになる。

次は人間性である。若者でも高齢者でもその人間に興味がなければ近づいてこないで離れていく。孤独な老人の孤独の原因はここにあると思っている。
私は合気道を長年続けているお陰もあって、合気道からいろいろ教えて貰っているし、合気道についてはいろいろ知っているので、合気道やそのつながりのあるものに興味のある人とはいくらでも話し合う事は出来る。
また、合気道の教えを受け、自分のこれからやるべきことは分かっているし、それが残りの時間との戦いであることも分かっている。
若い頃から持っていた「自分は何者で、何処から来て、何処に行くのか」も合気道のおかげでわかってきたようなので、後はお迎えの来るのを待つだけというところである。お迎えはあちらさんのことなので、こちらで心配しても仕方がない。あちらさん任せである。その分やりたい事をやることにしている。
多分、これらから自分の人間性、個性が出ると考えている。

年を取っている今、他人も自分に対しても卒業した学校や務めた会社等には興味がないし、重視していないが、高齢者になった今大事にしているものは健康と人間性・個性と書いた。しかしよく考えてみると、健康と人間性・個性は若い頃の学生生活や会社勤めの時期に培われるものであるわけだから、或る意味で、高齢者のためにも学歴、職歴・役職などに意味があることになる。学校や会社によって、優遇、冷遇、広域、狭域など違った体験・経験をするはずだからである。つまり、高齢者にとって、学歴、職歴・役職は意味がないが意味があったということである。若い頃に経験した事、読んだ本の知識、コンサートやオペラ、歌舞伎、お能、海外での経験、国内外の知人・友人等が今の人間性・個性を形成してきたはずである。もし、中学校までしか学校に行かず、まともに働きもしなければ、そのような知識や経験を持つことはできないはずである。

学歴、職歴・役職をぬいぐるみの魄とし、健康と人間性・個性を裸の自身、心とすれば、若い内は魄主体で生き、年を取ってくれば心重視の生き方に変わるということのようだ。