【第851回】 体に代わって体をつくる

傘寿を過ぎて、今わかった大事なことが一つある。これは若い時はもちろんのこと、高齢者になった時点ではわからないことである。高齢者になり、仕事をやめてからいろいろあったわけだが、その時点では気がつかなかったが、今それに気づいたということなのである。

それは体のことである。若い頃は通常の生活をしていれば体ができてきた。筋肉がつき、骨や関節が丈夫なっていった。特に、人は25才までは体が成長するという。この後も。以前ほどではなくとも体は成長続ける。故に、体の成長や管理などは体に任せていけば良かった。勿論、スポーツや武道や習い事で鍛えておく部位があれば、そこを意識して鍛えることはある。

若い頃は、体が体をつくっていると言えると思う。黙っていても動けば体ができていったのである。しかし、高齢者になると、体は体をつくってくれないことが分かってくる。その証拠に、若い時のように、体に体を任せて体をつかっていくと支障がでてくる。その典型的な例は、まともに歩けなくなることである。それまですいすい歩いていたのに、ふらついたり、躓いたり、すぐに疲れたりするようになる。若い時に、このような事になれば、走ったり、山登り等して足腰を鍛えて解消したわけだが、年をとるとそれは出来なくなる。つまり、若い時の延長上にはないということである。

年を取ってきたら、体をどのようにつくっていけばいいのか。体が体をつくってくれないとしたら、何が体をつくってくれるのかということになる。
その答えは、合気道の教えにある。合気道では、「人間は霊ばかりでは駄目で、肉体がなければ働けません。また肉体だけでは本当に働けません。肉体と霊が両々相まって働く時、真実の働きが出るのであります。精神が明るい世界を眺め、明るい世界と愛接する為に、肉体を頂き、そして肉体は生成化育のものを生み出す地場なのであります。故に、霊は肉体を育てあげねばなりません。体はまた精神に従って、すべて精神によって動き、精神にまかせてゆかねばなりません。精神を守るだけの肉体となってはじめて道が成立するのです。」(武産合気 P47)と教えているから、体をつくってくれるのは、今度は霊であり、精神ということになる。因みに、「魄の中に神が入り、魄を育て魄は魂を守るのです。」との教えから、体が体をつくるとは神が入る事ということになるということである。

高齢者になってからは、霊・精神で体をつくらなければならないことになるわけである。これまでになかった事であるから、いちから始めなければならない事になる。これまでの延長線上にはないということである。
体・技をつかう際、それまでは肉体主動であったのを、今度は霊・精神で体と技をつかうということである。勿論、初めから霊・精神で技と体をつかうのは難しいから、その媒体として息、そして気をつかうことになるわけである。これで肉体的、物質・物理的稽古から霊・精神的稽古に移り、魂の学びへの道に繋がることになるわけである。
因みに、これまでの延長線上で体をつくろうとするとどうなるかというと、体はできないし、体を壊すことになる。それは周りを見ればわかるだろう。

息と気が体をつくることになるが、例えば、イクムスビの息づかいである。イーと息を吐き、クーで息を引き、ムーで息を吐き、スーで息を引くである。これで手足や腰腹をつかうと筋肉が柔軟、頑強になり体ができる。更に、布斗麻邇御霊の水火の息づかいと気の巡りでも体はできる。 

尚、合気道を離れた一般生活ではどうかというと、高齢者になれば体は衰える。合気道をやっていてもそれまでのように歩けなくなる。足腰が弱るのである。その衰える速度は加速度的であるから、多少鍛えても衰えの速度に追いつかれ、追い越されてしまう。そのためにも更なる、そして新たな鍛錬が必要になるわけである。例えば、毎朝の禊ぎである。それに気・息の技の稽古、霊・精神での技・体づかいの稽古等である。