【第832回】 感動が大切

長年生きてくると、いろいろな事が分かってきたり、見えてくる。人はこれにより、また、このために生きていくのではないか、そして生きられるのではないかと思うようになった。
それは感動である。今つらいが、その内に楽になり、したい事が出来るようになると思うからである。悲惨な戦争の渦中にあって生きようとするのも、経済的に恵まれない状況にあっても頑張れるのは、その内きっとその状況がよくなり、楽になり、再び感動を得る状況が訪れると思えるからであろう。
合気道の修行に於いても、今はできなくとも、分からなくとも、いつかはその分からない事が分かり、見えなかった事が見えるようになり、感動するはずだと思うからであると考える。つまり、感動が励みになっているはずである。

分からない事が分かり、出来ない事ができるようになり、見えないモノが見えるは、間違いなく素晴らしいことである。それ自体が素晴らしい。が、それらは更なる素晴らしさを与えてくれるのである。それが“感動”である。
“感動”こそが、人が生きる上で、また、合気道を修業していく上でも重要であるはずである。感動のない人生、感動のない修業など気味が悪いし、意味がないだろう。

感動には小さな感動、大きな感動がある。勿論、中くらいの感動もあるはずだ。感動の小さいとか大きいとか、中くらいとかは、人によって違うだろうし、環境や場や時代によっても違うはずだ。だから、大事な事は自分の今の感動である。他人がどう思おうと自分で感動したこと、することが重要なのである。
そうすると、感動がいろいろ見えてくる。自分の感動には小さいも大きいものがあるが、どちらも優劣つけ難く、どちらも素晴らしいということが分かる。また、一生懸命にやればやるほどそれを達成した時の感動は大きいし、さらっとやってしまっての結果の感動はそれほど大きくない。従って、大きな感動をしたいなら、出来るだけ一生懸命に挑戦しなければならないことになる。

感動はいくらでも、そして容易に生まれると思う。しかし、若い頃の物質文明にどっぷりつかっていた時は、感動はあまりなかったように思う。年を取ってきて感動するようになったのである。生き方も合気道も精神文明に入り、物よりも心を大事にするようになってきたためだろうと考えている。どんなに豪華なものを見ても、また、それをあげると言われても感動しないが、幼い子供たちの笑顔や仕草には感動する。

年を取ってきて、出来るだけ感動しようと意識し、心がけようとしている。
例えば、四季を意識し楽しむ。今は、三月初めだが、朝晩の寒さと暖かくなった昼間のギャップ、6時頃に顔を出すようになった朝陽、朝陽が上がって少しすると現われる小鳥たちの囀りと恋人獲得のためのバトル、少しづつ咲いて、満開になり、散っていく梅の花等に感動している。そして昔の人が感動すればそれを歌に詠む気持ちも分かるようになった。勿論、この分かったことも感動である。景色を眺め、そして歌を詠む。それからその歌に感動することも出来るわけである。
そこで、今朝、詠んだ歌を記す。

朝日浴び
鶯の声聞きながら
剣を振る

禊ぎ終え
日向ぼっこしながら
音楽聞いて
遅めの朝食
幸せ幸せ


こんな事でも人は感動できるわけだから、感動するのは容易である。
勿論、私の最大の感動は合気道にある。宇宙の法則を見つけ、身につけた時である。それまで見えなかった事が見えたり、大先生の教えが分かったり、技で表わせたとき等である。それに論文を書いた時の感動は格別である。この感動に比べれば、他のことからの感動は小さい。だが、小さい感動もいい。感動があればあるほどいい。生きることも、合気道も感動で満ちればいい。
更に感動を大切にしていきたい。