【第824回】 人は感動を求めて生きている

80年生きてきた。それが長いのか短いのか分からないが、これまで分からなかった事がいろいろ分かってきたし、興味の無かったものに興味を持つようになり、ようやく生きることの素晴らしさを真に実感している。また、何故、生きることは素晴らしいのかが分かってきたし、どのようにすれば、なれば楽しく生きることができるのかも分かってきたようである。

現在の世界人口は70億人、また、約16万年前に現生人類が誕生して以来、この世に生まれ出た総人口は約500億人と推定されているという。このように多くの人が地球のいろいろな地域、そして16万年間という時間の中で生きて来たわけである。楽しい事もあったろうが、苦しい時代や消滅の危機にあった時代や地域が何度もあったはずだが、人類は生き続けている。死や生きる諦めを選択せずに、死の危険や苦難に打ち勝って生きて来たわけである。
よくぞ苦難に耐えながらも生き続けてきたものと感嘆するとともに、そこには何か人類共通の生きる原動力があるはずだと思う。その原動力は時間空間を超越したものである。大昔にも適用され、また、現在でも適用されているものである。時空を超越する法則である。つまり、宇宙の法則が働いているはずである。

それを一言で云えば「感動」であると考える。人は感動を求めて生きてきたはずである。今の自分、また、周りの生き様を見ればそれが分かるはずである。人は毎日、何かを求めて生きているが、それが感動であると考える。例えば、新たな出会い、宝くじの当選、旅行での景色の美しさ、美味しいモノを食べた時の満足感、スポーツ観戦、子供たちの成長、新たな発見、新たな挑戦とその結果等々いくらでも有る。それらの感動は意識出来るものもあるが、多くの場合意識できない感動かもしれない。が、我々は感動を求めて生きているはずである。
もし、感動が得られなくなったり、最早、得られないと思った場合は、生きている実感がなくなり、生きようとの意欲もなくなり、そして悲劇が起こることになる。自殺というのはここで起きるものと考えている。自殺まで行かなくとも、感動が無くなれば、生きる楽しさはなくなるから、無気力になるか、自暴自棄になるのだろうと思う。これが今の社会を乱している問題だと思う。

「感動」を視点にして、合気道やスポーツや相撲を見てみると、本来あるべき姿が見えてくる。
まず、合気道も「感動」を求めて修業しなければならないことになる。「感動」を得るためには、難しそうな事や出来そうにない事に挑戦することである。分からなかった事や出来なかった技がつかえるようになった瞬間に感動するものである。苦労すればするほど、その感動は大きいものである。
また、他人の技に感動することもある。大先生や有川先生のような名人、達人の技に接した時は、大いに感動、感激し、よーし、もっと頑張ろうと再決心するはずである。合気道も、感動するような稽古をしなければならないということである。勝った負けたとか、相手がどうのこうの云う余裕などないのである。

次にスポーツである。サッカーにしても、野球やテニス、それにオリンピック等、今のスポーツを見ていると勝ち負けにこだわっているようで面白くない。スポーツなのでプレイしている当事者たちは、勝つことが大事であろうが、見ている方は勝ち負けなど余り重視していない。見ている人は、プレイヤーの関係者であったり、プレーヤーやチームのファンでなければ勝敗などあまり興味がないはずである。いずれにしてもどちらかが勝ち、負けることは分かっているからである。我々興味があるのは、如何に素晴らしいプレイをしてくれるかである。人間にもこのようなプレイができるのか、能力があるのかという感動のためにみているのである。この人間能力開発がスポーツの最大の使命であり、感動になる本と考える。
相撲も同じである。勝ち負けより、勝負の内容や超人的な技に期待しているのである。小兵が大きな相手を投げ飛ばすなどの技には誰でも感動する。

人は感動を求めて生きていると確信している。これは宇宙の法則であろう。この法則に従って生きていれば、宇宙の営みと一体となった生き方ができるわけだから、大きな感動を得ることができると思う。合気道はこの宇宙の法則に則り、宇宙と一体化する修業をしているわけだから、最大の感動を受けることができるはずである。多くの人が合気道を学び、感動を得て欲しいと願っている。