【第810回】 禊ぎと道場稽古

入門してから4,5年はほぼ毎日、それも2時間、それに間の自主稽古の時間も稽古をした。当時は学生であり、大先生もご健在だったし、素晴らしい先輩や仲間もいたので、稽古が楽しかった。稽古が楽しいという事は、自分の体と精神の上達を感得し、合気道の稽古に充実感が持てたためであろう。
当時は勿論、それからしばらくの間、最近まで、道場での相対での稽古が稽古であり、上達法であると思っていた。

大先生は時々、我々が稽古をしている道場にお見えになり、「日々、必ず禊ぎの修業をしなければならない」「禊ぎをしなければもの(技)は生まれて来ない」等とお話しされた。
しかし、当時は禊ぎがどのようなものかも分からなかったし、興味もなかった。只、道場稽古で一生懸命に稽古をすればいいと思っていた。
道場稽古100%、禊ぎ0%の時期である。

仕事に付き、年を少し取ってくると、それまでのように、毎日道場に通って稽古をすることが、物理的、そして精神的、肉体的に出来なくなってくる。道場稽古は、精々週1,2回、場合によっては月に数回となってしまった。そうなると体と心が合気道をやりたいと叫び始める。その声に応えるように、出勤前や就寝前に木刀を振ったり、杖を振るようになる。禊ぎの始まり期である。道場稽古90−60%、禊ぎ10−40%の時期である。

退職して稽古時間が有り余るほどになるのだが、若い頃のように、毎日、道場に通って稽古はしない。その体力と気力がなくなっているのである。しかし、合気道の稽古は続け、精進しなければならない。そこで禊ぎが重要になるわけである。前述の大先生の教え「日々、必ず禊ぎの修業をしなければならない」「禊ぎをしなければもの(技)は生まれて来ない」の重みが出てくる。道場稽古が減る分、禊ぎに重点を移すという事になる。これまで以上の禊ぎをするのである。技のイメージトレーニングをしたり、詔も奏上するようにもなる。そしてまた、只、剣や杖の得物を振るだけでなく、宇宙の創造と営みの運化である布斗麻邇御霊の息(気)で、剣・杖をつかったり、合気の技をつかうのである。一教から四教までの抑え技でも、呼吸法や呼吸投げ、入身投げ等もこの御霊の動きでやるのである。禊ぎ技は禊ぎそのものであると、大先生はいわれているわけだから、正真正銘の禊である。
禊ぎは道場稽古より楽だということではない。時間的にも平均2時間はかかるし、長ければ3時間になる場合もある。研究することによって変わる。
道場稽古40%−10%、禊ぎ60%−90%である。

恐らくいずれ近い内に、道場稽古は出来なくなるだろう。そして自宅での禊ぎだけになるだろう。道場稽古0%、禊ぎ100%である。

合気道の修業・稽古は、道場稽古から禊ぎに移行しているようだが、もう少し道場稽古を満喫したいと思っているところである。