【第797回】 日常が有難い

新型コロナウィルスのお蔭で、それまでの日常が変わってしまった。行きたいところにも行けないし、人に会ったり、飲みにいくこともできなくなった。
これまで普通だったことが出来なくなってしまったわけである。それまでの日常が非日常になってしまったわけである。そしてこの非日常が日常になってしまったのである。もし、新型コロナウィルス感染拡大が更に続き、そして長期化すれば、この非日常が日常になってしまうことになる。

この新型コロナウィルスは迷惑であるが、これを機会に、日常の有難さに気づかせてくれたのではないかと思う。恐らく多くの人は、この体験により、己のこれまでの日常に感謝し、これからの日常をより有意義に過ごそうとするのではないかと思う。
特に、若者たちにはいい機会であると思っている。高齢者は、新型コロナウィルス感染以前から、日常を有難く、日常に感謝しているはずだからである。
高齢者にとって、日常ほど有難いことはない。三食を美味しく頂けて、快便、よく寝れて気持ちよく目覚める。また、普通に歩けること、見えること、聞こえること、思い通りに身を動かすこと、やりたいことが出来ること、行きたいところに行けること等などである。若者にとってはなんの変哲もなく、退屈なものである。若者は、これでは生きているような気になれず、何かをやることになるわけである。それが若者の日常であるが、高齢者の日常は云ってみれば地味なものである、がこの日常が高齢者にとっては大事なのである。もし、この日常の食事で、食欲が無くなってしまったり、自由に歩けなくなってしまったり、目が見えなくなったり、耳が聞こえなくなったりすれば、これまでの生活や生活の場を変えなければ(病院、施設)ならない。
しかし、いずれ誰でも年を取れば、それまでの日常を変えなければならなくなり、非日常に入っていくことになる。ある日、突然、歩けなくなるということになるかもしれないのである。

このように日常から即非日常に変わらなければならなくなることは、人にとってショックであり、悲劇である。この悲劇を避けるため、また少しでも抑えるために、日常から非日常に移行する間のクッションがあればいいだろう。
私のそのクッションは合気道である。合気道の稽古をしているかぎり、歩けるかどうか、どのぐらい足腰が弱っているのか、身体はまだ動いてくれるのか、どれほど鍛えられそして弱体化しているのかなど分かる。また、それによって食欲、睡眠、快便をチェックしたり、注意をすることになる。
つまり、合気道道場に姿を現しているかぎりは、合気道に於いても日常であり、また通常の生活に於いても日常にあるという証明になるわけである。しかし、合気道の稽古が出来なくなるようになれば、合気道稽古のない非日常が日常となるが、通常の日常に於いても合気道のない非日常が日常となる。そして段々とこの非日常が日常に移り変わっていくことになると思っている。要は、合気道を続けている限りは、日常であるということである。
先はこんな風になるだろうから、今の日常を有難く思い、楽しむことにしている。