【第792回】 ことごとくみな無駄に見過ごさない

合気道を長年続け、そして年を取ってくると、これまでの稽古に対する考え方や姿勢が変わってくることがわかる。これまでは技が上手くなるように、道場で先生の教えに従い、相対稽古の相手や仲間と技を磨き、体や心を鍛えてきていた。つまり、稽古の場は道場であったわけである。
しかし、70歳を過ぎた頃から、道場の外での稽古、鍛錬の必要性を感じるようになった。そして毎朝、禊ぎを行い、聖典『武産合気』『合気神髄』や多種多様な書物を読むようになり、いろいろな所を訪れたり、いろいろな人たちと話をする。そしてそれで学んだことや考えた事を道場で技で試し、研究し、反省し、再挑戦するとやっている。言うなれば、道場から道場の外、稽古の段階から修業の次元に入ったと思っている。

年を取ってくると、力やスタミナが衰えるが、年を取らなければ出来ない、得られないモノがあることも分かってくる。
それは目に触れたすべてのモノが何かを教えてくれているということである。書籍だけでなく、山川草木、犬や猫や鳥、昆虫、また、人の動き(歩行)、サッカーやバスケットなどのスポーツ、相撲、更に、世界の動き、地球や宇宙の動き等‥である。つまり、すべてが合気道修業のための師と思えるようになったわけである。

これは道場だけでなく、天地宇宙の真象、つまり万有万物から教わらなければならないということである。
これを大先生は次の様に教えておられる。
「天地の真象を眺めて、そして学んでいく。そして悟ったり、反省したり、学んだりを繰り返していかなければいけない。要するに武道を修行する者は、宇宙の真象を腹中に胎蔵してしまうことが大切で、世界の動きをみてそれから何かを悟り、また書物をみて自分に技として受け入れる。ことごとくみな無駄に見過ごさないようにしなければいけない。すなわち山川草木ひとつとして師とならないものはないのである。」

この境地に入るには、ある程度の人生経験と合気道のレベルが必要になると思うから、若くて元気で魄の稽古をしている内は難しく、やはりある程度の高齢にならなければならないだろう。高齢者の特権、高齢者万歳である。

ことごとくみな無駄に見過ごさないように心がけるようになると、生活も修業も楽しくなる。子供や若者の笑顔を見ても、花や草木を見ても、その喜びや気持ちが分かり、これまで関係が無く疎遠であったモノにつながりができる。すべてのもが身近に感ずる。大先生が言われておられる、世の中に他人などおらず、すべて家族であると思えるのである。
そして、彼らのためにも少しでもいい世の中にするために頑張らなければならないと思うようになるわけである。戦争や争いが無い、みんなが笑ってくらせるような地球楽園をつくるお手伝いをしなければならないと思うのである。
これは合気道の教えである、合気道修業の目的である。ということは、合気道の目標を達成するためにも、「ことごとくみな無駄に見過ごさない」ことが必要になるわけである。