【第787回】 傘寿になったが

人世の大事な節目とした傘寿(80歳)の誕生日を迎えてから約1か月が過ぎた。半人前を脱して、大人になろうとしているわけだが、傘寿の前と後とで変わったのか変わらないのか、変わったとしたらどのように変わろうとしているのかを見てみたいと思う。
まず、傘寿直後、早速、傘寿以前は一つの大きな誤りを犯していたことにやっと気がついたことである。それは脱したいと願っていた“はなたれこぞう”を“鼻たれ小僧“と書き続けてきたことである。“はなたれこぞう”は“洟垂れ小僧”と書かなければならないことに気づかされたのである。因みに、それはどうして気づいたかというと、風呂の中で『西遊記』(岩波文庫)を読んでいて、偶然にこの言葉に出会ったからである。もし、ここでこの言葉に出会わなければ、まだまだ、否、もしかすると永遠にこの間違いを続けていたかもしれないことになる。冷や汗ものである。傘寿になると運もついてくるのかも知れないとも思った次第である。

一か月ばかりの傘寿人生であるが、このショックが大きかったので、これを基に傘寿になって変わった事、変わろうとしていることを記してみたいと思う。
まず、“鼻たれ小僧“の間違いは傘寿以前なら、洟垂れ小僧だからしょうがないと許せるし、ああ又かと余り気にしなかったと思う。しかし、傘寿後は極力、間違いを仕出かさないことであり、もし、間違いをした場合は、二度と同じ間違いを繰り返さないようしなければならないと心に決めた。そのために、その間違いの原因・理由を見つけ、そしてその対策を取るのである。また、これまでの思い込みを無くすことも大事である。年を取るまでに凝り固まった思い込みを取るのは容易ではないと思うが、必要である。思い込みが取れていけば、頭の硬さがほぐれ、柔軟な発想ができるし、新しい事もどんどん入ってくるはずであると考える。

次に、知らない事がまだまだ沢山あるということが分かってきたことである。この誤字を基に言葉に注意をしていると、己の言葉の知らなさに愕然とすることになった。詳しいことは別な機会に書くとするが、我々が日本語としてつかっている言葉、日本語には、漢語、外来語のほか大和言葉があるということである。これで大先生の『武産合気』『合気神髄』がどうして理解出来ないのか、『古事記』が上手く読めないのか、祝詞の意味が難しいのかが分かった。つまり、これらが分かるためには、大和言葉を勉強しなければならないということである。洟垂れ小僧のときは、解らなくとも、無視してもいいだろうが、一人前として、これからは大和言葉にも挑戦して、身に付けていかなければならないと思った。

洟垂れ小僧のときは、洟垂れ小僧だからいいと言っていたが、傘寿からは、失敗、出来ない事、挑戦しない事に恥じるようにならなければならないだろう。