【第784回】 仏像に学ぶ

合気道を創られた植芝盛平翁は、合気道を精進するためには、天地、日月星辰、山川、生物、植物など身の回りから学んでいかなければならないと教えておられる。若い頃はこれが理解出来ないし、それ以前に興味を持てなかった。私が過ってはそうであったから、他の人たちも同じだと思う。若い頃、合気道の上達の為に一番大事にしているのは、相対での稽古である。相手に技を掛けて、どうすれば相手を投げたり極める事ができるかである。天地とか合気道の技の錬磨に直接関係あるとは思われない事には関心が持てないのである。

今になると、この大先生の教えが身に染みてよくわかるし、そうでなければ上達はないと確信するようになった。つまり、大先生の教えが分からなかったり、関心がないということは、まだまだ初心者の段階にあるという事になるわけである。過って、大先生からこの教えを度々直にお聞きしていたのだが、不謹慎にも、それよりも技の稽古で体を動かしたくてうずうずしていたものだ。また、開祖の直弟子であった塩田剛三養神館館長が、金魚鉢の中の金魚の動きから体捌きを学んだと云われていたが、これもまだよく理解できていなかった。

木造阿弥陀如来
最近、ようやく宇宙の営みに則って技と体をつかうように心がけ始めたこともあり、この大先生の教えが身に染みてわかってきた。そしてその境地に入ってくると、身の回りのものがいろいろと教えてくれていることに確信し、感動するようになった。これも年を取ることによるのだろう。
今回は、多くの身の回りからの教えの中から、仏像の教えを書いて見ることにする。

人は古いモノ、古ければ古いほど評価するものである。千年以上前に造られた仏像だと有難がれ、拝む対象になる。よく長い間持ちこたえられてご苦労様ということである。次に、写真にもあるように、如何に古くなり、欠けたり、色が剥脱しても、色を塗ったりして新しく見せようとはしない事である。中には、手や足や顔が欠けても、そのままにしてある仏像も多くあることである。

これが何を教えてくれるかと考えてみると、まず、人は年を取るが、年を取ればとるほど評価されるようにならなければならないという事である。仏像のように1000歳は無理だが、100歳まで生きられたら味が出るし、敬われるかもしれない。100歳での合気道がどうなっているか想像すれば、わくわくするし、そういう稽古人に会ったなら、古い仏像のように拝んでしまうかもしれない。
次に、人は年を取って皺ができようと、髪がなくなろうと、姿形が崩れてもそれを受け入れていけばいいということである。それがその人自身であるからである。別に、無理して、顔や頭をいじったり、注射をしたり、薬漬けになったりすることはない。
更に、頭が欠けるのは問題だが、手や足が欠けたぐらいで慌てることはない。若い内なら、まだまだ社会で生産的に生きなければならないから、欠けたところは補修した方がいいが、年を取ったらそれも受け入れたいと思っている。何故ならば、最後に自分がどのようになるか見てみたいと思っているからである。なるべく外部の力を借りず、自分の力でやって行きたいと思っている。これは先述の“身の回りから学ぶ“と矛盾するが、これが仏像の教えである。この二律相反、矛盾がまた面白い。
仏像からもこのような学びがあるということである。