【第781回】 禊ぎの合気道に

年を取ってくると、これまでのように相手を投げたり抑えるための合気道は出来なるし、また、やろうとも思わなくなってくる。相手を意識した相対的な稽古や腕力や勢いに頼った物理的な魄の稽古に興味がなくなってくるのである。
間もなく傘寿(80歳)になるが、前から言っているように、傘寿からはこれまでの鼻ったれ小僧から一人前になり、そして一人前の合気道を修業していきたいと思っている。
また、身体は衰えていく傾向にあることが分かり、これまでのような無理な稽古は出来ないことも実感するようになる。
それ故、これまでの力に頼る魄の稽古ではなく、魂(心、精神)主体の稽古、また、相手を意識した相対的稽古から、己主体の絶対的な稽古にしていかなければならないと考えている。

それでは具体的にどのような稽古をすればいいのかということになる。
その答えは“禊ぎ“である。合気道の稽古を禊にすることである。
以前ならば、禊ぎなどと聞いたらば、宗教的で武道とは関係ないと思ったが、年を取ったせいか、やっと大先生の言われておられる合気道の“禊ぎ”の意味や重要性がわかってきた。

大先生は、「合気道は禊の技である。悉く神代からのみそぎの技を集めたものです。」と教えておられる。また、我々が稽古をしている技も、「合気道の技の形は体の節々をときほごすための準備です。これから六根の罪けがれをみそぎ淨めていかなければなりません。」と言われておられ、我々稽古人が技の鍛練稽古こそが合気道であると思っているわけだが、実は、これは体の節々のカスをとる、真の合気道への準備段階なのである。

それでは真の合気道とは何かというと、禊ぎの技を稽古することである。
“禊ぎ”には、先述の体の節々をときほごすことや深呼吸をして血行をよくし、血液のかすをとる等々あるわけだが、真の意義の禊ぎを合気道でやっていかなければならないということである。

この真の意義の禊ぎとなるために、これからどのような稽古をしていかなければならないかというと、大先生は「宇内のすべての運化にもとづいて稽古を続行しなければならない。これがみそぎの真意義である。」と教えておられる。つまり、宇内のすべての運化にもとづいて稽古を続行しなければならないということである。要は、布斗麻邇御霊の営みに合して息をつかい、体を動かし、技をつかっていくことが真の“禊ぎ“になるということだろう。
そして、これを単独で、そして道場で相対で行っていくのである。
これが傘寿からの稽古、禊ぎの合気道であると考えている。