【第772回】 老いて喜び、楽しむ

傘寿さんじゅ(80歳)の少し手前から、喜びや楽しみがこれまでと違ってくるのが面白い。若い頃は、喜びや楽しみは、ほぼ外に見つけていたと思う。学校に行って知識を得たり、校友や友達と会って遊んだりしゃべったり、旅行をして自然に触れたり等々である。合気道の稽古でも、道場に行って先生からいろいろ教わったり、仲間と激しい稽古をしたりするのが楽しかった。

若い内は、楽しみや喜びは外に求めていたと言える。その証拠に、子供や若者が家の中や檻などに閉じ込められるには耐えられないはずである。
傘寿目前の今、コロナ感染拡大で自宅にいたり、稽古のため道場が閉鎖されることもあるが、それほど問題にならない。何故ならば、コロナがあろうがなかろうが、喜びや楽しみを得られるようにしているからである。自分で喜びや楽しみの本をつくり、一人で喜び楽しんでいるからである。

老いてきた分かってくるのだが、喜びや楽しみの本は自分の中にあるということである。老いてくると、どんな事に喜びや楽しみがあるのかというと、
例えば、

この喜びや楽しみは、年を重ねないと難しいはずである。真の喜びや楽しみは過去の事とつながっているのである。過去の知識や経験が必要だからである。若い頃はいろいろな出来事や問題に遭遇するわけだが、分からなかった事や出来なかった事がポツンポツンと残っているものである。普段はそれを意識しないものだが、必要に応じてそれが表面化し意識するようになるのである。
そしていろいろな経験をし、難題との格闘などしてくると知識や知恵や力がつき、どんどんと問題が解けるようになってくる。その問題を解くために、過去からの問題が役立つこともあるし、その問題を解くことによって、過去の問題が解決することもある。つまり、すべての事は過去とつながっているということである。
過去からの最大の問題は、自分は何者で、何処から来て、何処へ行くのか、そして何をなすべきかであったが、合気道のお蔭でこの問題は自分なりに解決されたと思っている。
また、合気道についても大分わかってきた。合気道とは何か。何を目標にして修業すべきなのか等である。

しかし、同じ事だけをしたり、同じ場や次元に留まっていては、喜びや楽しみが薄まってしまう。更なる喜びや楽しみの本が必要になるわけである。

更なる喜びや楽しみの本は、 小乗から大乗へ進むことである。この大乗の喜びや楽しみが得られれば、それが本当の喜びと楽しさになるはずだと思う。そのためにも、もう少し老いる必要があるようだ。 老い万歳である。