【第763回】 老いもまたよし

75歳の後期高齢者になり間もなく傘寿となろうとしているが、高齢者、世間でいう老人になっていく実感を持つようになってきた。確かに、これまで世間で云われてきた老人の肉体的、精神的な兆候が出てきている。食欲は落ち、睡眠は浅く、体重も体力も精神力も減る傾向にある。寂しいかぎりである。
一方、老人になるといいこともある事が出てくる。老人の負け惜しみではない。合気道の教えにある、物事は一面ではなく、必ず裏表の両面があるということである。
ネガティブの面は世間一般で云われているし、その幾つかは上で書いているので、ポジティブの面を書いてみることにする。

まず、老人になってくると、過去に起こり遭遇した出来事の意味が分かってくることである。これまで多くの人に出会い、そして分かれてきたわけだが、その人たちが自分を助け、支援してくれていた事が分かるのである。家族、友人、知人、女房とその家族、仕事の関係者、稽古での先生・先輩・仲間等々であるが、その多くは私を導いてくれた“神様”だったのではないかと思っている。
三度、死んでもおかしくない体験をした。すべて水に関係のある出来事であったが、何かに命を救われた。若い頃はそれを運とか、自分の実力だろう等と深く考えず思い過していたが、老人になってくると何かが助け、導いてくれたと思うようになった。そしてその助けは何か、これは年を取って来てわかってくるのだが、己がやるべく使命を果たすために助けられたのだと思うようになったのである。使命を果たすために、いろいろな人や事が見守り、手を貸してくれたとしか思えなくなるのである。尚、使命とは、自分がやりたいこと、やるべきと思うことであると考えている。

次に、若い頃、自分が嫌だと思っていた自分のマイナス面が老人になるとプラスになり役立つようになることである。
子供の頃、学生時代、仕事をしていた時代には、同じ事、同じ問題をくどくど考え悩み続けることが多かった。考えても仕方ないことを堂々巡りして悩んでいたのである。諦めればよかったものに、しつこくしがみつぃていたわけである。
しかし、この癖、別な言葉では“さが“のお蔭で、この論文を書くことが出来るし、難解な合気道を探究し続けることができるわけである。

また、学校の勉強でも遊びでも、仕事でも同じことをするのは苦手で、所謂、飽きっぽい性であった。常に新しいやり方、考え方を試していたようで、先生や人の言うことを聞く性ではなかった。勿論、学校の成績は良くなかった。
しかし、三度だけ真剣に勉強した。いい結果を出した。これで大概の事はどうでもいい事だが、やらなければならない事はとことんやらなければならないということを学んだ。
この性のお蔭で、合気道の技を深める事が出来るようになったと思っている。几帳面にやっていたら技は固まっていたはずである。
それで合気道が続いているし、合気道の論文も続いているようだ。

三つ目は、これまでやって来たことに無駄がないことがわかることである。若い頃には、やったことを失敗して後悔したり、何故こんなことをしたのかと悩んだり、これがどんな意味があり、役立つのかなど疑問に思ったものだが、今になってわかるのは、それはすべて今に、そして先に繋がり、役立っているのである。家庭生活、勉強にあまり興味がなくとも通った学校、いろいろ苦労した仕事、知人・有人との交友、読書、稽古等々すべてが自分の糧になり、そして先述の使命を果たすためのものになっていることがわかるようになるのである。やった事は成功しようが失敗しようが意味があり、役立つのである。やらなかったり、逃げたりしたモノは後悔するようになるはずである。

四つ目である。間もなくお迎えが来る事、この先が終わる事をこれまで以上に実感するようになる。しかし、その反面、それまでこの先に何があるのかが楽しみになる。
人それぞれ違うことがより分かってくる。若い頃は、人は自分と同じ考え、同じやり方でなければならないと、自分を主張したり、合気の技を強要したが、人は違い自由であるべきだと思うようになった。そして自分が自由にならなければならない事もわかった。合気道を長年続けてきたお蔭である。合気道では、「世の中はすべて自我と私欲の念を去れば自由になるのです」(「合気神髄」 p.12」と教えているのである。自我と私欲の念を去るなど容易ではない。残されたこれからの修行である。
また、自我と私欲の念を去れば、物質文明から精神文明に返ることができるだろうし、損得なしで人や物事を見る事ができるようになるはずである。目に見えない心を表に出すから、公平性が生まれ、そして愛が生まれるはずである。
間もなくいなくなる自分のためより、後に続く後進・後輩、人類、宇宙のために働くことになるはずである。
老いもまたよしである。